昨日の家庭集会も多くの方が各地から集われた。久しぶりの方や初めて来られた方もおられ、中には18年ぶりと言う方もおられた。昨日のベックさんのメッセージを実況録音よろしく、聞き書きの形で以下に掲載する。引用聖句はそれぞれ1コリント1・23〜24、ガラテヤ6・14 であった。メッセージの前に藤井奈生子さんが日々の歌124番「十字架にかかりていのちに代えて」を賛美された。それを受けた形でメッセージは語られた。
今の歌の内容も「十字架」でした。マタイ伝1・21
今の歌の内容も「十字架」でした。マタイ伝1・21
マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださるお方です。
主イエスとは罪から救うお方です。そしてコリント第一の手紙2章2節に
なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。
とパウロは証したのであります。
聖書の中心とはもちろん人間が何を信ずべきか、やるべきかよりも、創造主はイエス様を通して何をしてくださったかということです。すなわち聖書の中心とは十字架にかけられた主イエス様です。
今日私たちが周囲を見ると人類には何か正常でないことが恐ろしい予感とともに感ぜられるのではないでしょうか。すなわち国々のなやみが私たちにそれをはっきり物語っているから(です)。たとえば、解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭における困難な問題が、それです。それは正常ではありません。私たちが個々の人に会うときこれと同じことを知ります。すなわち個々の人々も正常ではない、ということです。情欲、憎しみ、腹立ち、不純、吝嗇(りんしょく)、うそ、利己心、これらのものが人間を醜くしています。しかし、正常でないのは他の人々だけなのでしょうか。
まず、自分がよく考えるとき、心の中に自分も正常でないということに気づくのではないでしょうか。そして自分はこの正常でないことを他の人々に隠したいのであり、自分にも隠したいのです。ですから、ひとりでいることができず、静かに話すこともせず、テレビやラジオ、つきあい、それから気晴らしを好むのです。けども、黙ることのない声が絶えず響いてきて、それは正常でない、と私たち(の心)を打ちます。何が正常でないのでしょうか。われわれの生活と全人類の調子っぱずれは何のためなのでしょうか。それには隠すことができない事実ですけど、たくさんの説明が確かになされています。すなわち経済恐慌のせいか、文化や技術のせいだ、人のせいだなどと色々あります。
まず、自分がよく考えるとき、心の中に自分も正常でないということに気づくのではないでしょうか。そして自分はこの正常でないことを他の人々に隠したいのであり、自分にも隠したいのです。ですから、ひとりでいることができず、静かに話すこともせず、テレビやラジオ、つきあい、それから気晴らしを好むのです。けども、黙ることのない声が絶えず響いてきて、それは正常でない、と私たち(の心)を打ちます。何が正常でないのでしょうか。われわれの生活と全人類の調子っぱずれは何のためなのでしょうか。それには隠すことができない事実ですけど、たくさんの説明が確かになされています。すなわち経済恐慌のせいか、文化や技術のせいだ、人のせいだなどと色々あります。
この世に示される色々な解決をもってしては私たちには少しも解決にならない。私たちに権威をもって何が正常でないかを言うことのできるのは、言うまでもなく天と地を創造された万物の造り主だけです。主なる神は世界と人間を造られたので、主のみが何が正常でないかを知っておられます。主なる神はわれわれにはっきりと明確に言っています。箴言の14章34節。一(ひと)文章だけですけども、
正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。
正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。
と言っておられます。今日の世界は主なる神が計画された世界ではない。今日の人間は主なる神がご計画になった状態ではありません。主なる神が天と地を造られたとき、主の欺かれない判断は天と地を見て非常に良い、とされたのでした。すなわち、すべてがもちろん完全だったし、正常でした。今日は何とその反対のことでしょう。
主のことばは、今日の人間に対する判断とは、ロマ書3章12節に
善を行なう人はいない、ひとりもいない。
と言っておられます。旧約聖書の中でも内容的に全く同じことば書いていますけど、非常に分かりやすく、イザヤ書1章5、6節
頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
私たちは心からそれは正しい、本当のことだと認めなければなりません。今、私たちが人類を見ると、誰かがすばらしい完成された絵にインクをぶちまけ、すべてが駄目になったように思われるのであり、また、素晴らしい交響曲の真っただ中にすべてをこわし滅茶苦茶にするひどい音を入れるかのように、その状態に思われるのです。完成された主のものであって、この世はどうして今日の悩みと苦しみと罪の世界になっちゃったのでしょうか。誰のせいなのでしょうか。この質問に対して主なる神のことばである聖書のみ、正しく明確な答えを与えています。ロマ書の中でよく知られている箇所ですが5章の12節です。272頁
、ローマ人の5章12節を見ると次のように書かれています。
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、—それというのも全人類が罪を犯したからです。
とあります。第一の人、すなわちアダムは、主なる神を捨て、悪魔に手を差し伸べたのです。アダムは主から離れ、悪魔の味方をしたのです。この悪魔は人をしっかりと押さえて離さず人に権力を持っているのです。悪魔は人間に要求する権利を持っています。なぜなら、人間は勝手にこの要求権を悪魔に与えたのであるからです。そして、すべての人間は今や生まれつき主なる神から離れ、悪魔の魔力のうちに住んでいるのです。神とのいのちのつながりは完全に断ち切られました。潜水夫がかついでいる酸素吸入服の連結管が切られれば、潜水夫は呼吸することができなくなり、と同じように人間の精神もまた主なる神とのつながりが切られると呼吸することができなくなるのです。ですから、非常に多くのことがもはや正常ではなくなっています。人間はもはや主なる神を知らず、人間はもはや主なる神のみこころを行なわず、人間はもはや主なる神との交わりを持っていません。これがすべてのことを明らかにしています。
人々は計画や仕事や決定をみな自分で行ない、気ままに行動し、もはや主なる神に尋ねることをしません。しかし、人間は一つの呼吸すら主なる神なしには行なうことができない。主なる神なしに生活するということは個々の人間、家庭、および国々の最も恐ろしい罪です。もし主なる神が実際に生きておられる永遠なる神であり、私たち造られたすべての上にある主であるならば、そして、その御手のうちから私たちが逃れ得ないものであるなら、将来はどうなるのでしょうか。すべての人間は、偉大なる創造主である神があるということをほんとうに生まれつき知っています。その神は石に住んでいると思う人もいるし、木に住んでいると思う人もいます。また神はいないと言う人もいます。けど、無神論者の「憎しみ」が神があるという最も強い証明となっています。なぜなら、何もないものを憎む必要はない、何もないものに反対する必要はないからです。イザヤ書44章の6節に次のように書かれています。
人々は計画や仕事や決定をみな自分で行ない、気ままに行動し、もはや主なる神に尋ねることをしません。しかし、人間は一つの呼吸すら主なる神なしには行なうことができない。主なる神なしに生活するということは個々の人間、家庭、および国々の最も恐ろしい罪です。もし主なる神が実際に生きておられる永遠なる神であり、私たち造られたすべての上にある主であるならば、そして、その御手のうちから私たちが逃れ得ないものであるなら、将来はどうなるのでしょうか。すべての人間は、偉大なる創造主である神があるということをほんとうに生まれつき知っています。その神は石に住んでいると思う人もいるし、木に住んでいると思う人もいます。また神はいないと言う人もいます。けど、無神論者の「憎しみ」が神があるという最も強い証明となっています。なぜなら、何もないものを憎む必要はない、何もないものに反対する必要はないからです。イザヤ書44章の6節に次のように書かれています。
万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。
この神は天と地の造り主であります。このただ一つの神に対して、私たち人間は債務を持っています。そのことも人間は知っています。もしもこの神聖なる生きておられる全能なる神に私たちが敵対するならもうおしまいです。滅ぼされます。パウロはローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。6章23節
罪から来る報酬は死です。
神はただひとりです。しかし非常に多くの偶像があります。たとえばこの国は800万の偶像がある国として世界に知られています。私たちはイザヤに書かれたものに似ていないで
しょうか。ちょっと読みます。44章1098頁になります。44章の12節から
鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造
り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
何と多くの者は木の端くれの前にひれふすのではないでしょうか。われわれのよりどころは一体何なのでしょうか。(「下」に続く)
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