2016年9月25日日曜日

保証されている安息

もてなしの心(1ペテロ4:9)
神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。(ヘブル4:10)

 赦しのあとには、新しく無力と感じさせられることのうちに、大きな慰めの思いがやってきます。それは私たちが何もできないものであることを悟らせる事柄自体から慰めが生ずるからです。

 私たちの力は大変大きな範囲にまで不本意にかつ無意識なうちに働くので、もし私たち自身がほんとうに今イエス様のために守られるなら、このことはまったく当然の結果として、将来もイエス様のためにもまた守られるであろうと確信し安心することができるのです。

 さもなければ、あり得ないことです。なぜなら、泉がそうであるのと同じように流れ、ばねと同じように動き、衝動と同じように連動するでしょうから。

 このようにして、それについての静かな安息、あらゆる緊張と努力感が取り除かれ、「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」というみことばの成就が単純な信仰において実現することでしょう。

 それは良い影響を持とうと試みることが問題ではなく、まさしく良い影響とは、磁化されたバーと同じように、自然に恒常的に持つことにあります。

キリスト 私たちの主の 真実に 憩い
イエスご自身の確かなことばの 満たしに 憩おう
イエス様の 御力の上に 語られない愛の上に 憩い
古から保証されている イエス様の 安息の契約に 憩おう
安息と信仰を持ち 進もう
イエスご自身のうちに憩おう 主は私たちの義なる方
安息と喜びを 主の救われた者は歌おう
栄光 栄光 栄光 私たちの王 キリストにあれかしと

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-25-rest-assured/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97433です。今日の箇所はきわめて短い箇所であったが、久しぶりに難解であった。何度も読むが英語力もなく、このヘブル書の大事なところの意味を、ほんとうの意味でまだ十分理解していないせいかも知れない。人生365日、またこんな日もあるのだと思うことにする。

※Godhold Beck(34)
 ベック兄ほどみことばを大切にした人は今までお会いしたことがない。それは逆に言うと自らを何があっても信用しない覚悟であったのであろう。ハヴァガルもまたみことば中心であった。

 今日若い方とお交わりした。自らの信仰を顧みる良き機会であった。それは自らが「まっすぐに見える道」「死の道」(箴言14:12)から離れ、「わたし〈神様〉の言うことを聞き」「いのちを見いだす」(箴言8:34)道へ歩み出したことのたどたどしい証しとなった。

 聖書と言う生ける神様のみことばは心底救われたいと思う人を必ず救う。ベック兄の若き日を回顧した文章に次の数節がある。ドイツ敗戦のショックを受けてだが、「生まれて初めて、『生きる』という意味について真剣に考えました。それをだれかに聞いてみる勇気もなく、いつのまにか、すべてに終止符を打とう、という決意が私の中で大きくなっていきました。自分の首を吊るのが最も簡単な方法のように思えました。農場の中に、ちょうどよさそうな枝をすでに見つけてありました。しかし、ことは違った方向に進んで行きました。」(ドイツマガジン30頁より)

 果たしてどんな道が用意されていたのでしょうか。明日はその続きを写してみることにしてみます。)

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