2016年9月7日水曜日

きよい手とは

Peace   F.R.Havergal
見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。(ルカ22:21) 
わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。(マタイ26:23)

 それは私たちの主イエス様がお話しになったその手でした。その手はイエス様に大変近くにあり、ともに食卓につき、もっとも甘美で、もっとも親密で、もっとも厳粛な交わりのうちに、皿にある主ご自身の御手に触れた手でしたが、主を裏切る手だったのです。その同じ手が銀貨30枚を受け取ったのです。私たちの手を(きよく)保たねばならないとは何という恐ろしい教訓でしょうか。

 おお、主とともに主の食卓にあり、記念すべきパンをいただくすべての手がいかなる不信仰や愛のない行動から守られますように。そして、もう一度言いましょう。私たちの主イエス様が十字架につけられ、殺されたのは文字どおり「不法な者の手(使徒2:23)」によるものでした。人類の手は愛する主にとって大変不誠実で残酷であったという思いは私たちに私たちの手が全面的に信仰にあふれ、ささげられるものとなりますようにという願いをさらに熱心にさせないでしょうか。

 衝動のままに動かされてしまう(手が先に動いて)危険と誘惑はご奉仕に身をゆだね 献身していると信じ切っている者達にとっても大きいものなのです。

 
主は汝を全面的に聖別し
汝の救い主が
栄光と尊厳を帯びて来るまで
体 たましい 霊は
傷つくことなかりせん

主は主が聖別された者を
とこしえに完成さる
傷なく 栄光あふれ 聖くさるるは
主の選ばれし花嫁なる教会 

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/september-7-clean-hands-at-the-table/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97415です。最後の文章はわかりにくい訳になってしまった。原文は以下の通りである。Danger and temptation to let the hands move at other impulses is every bit as great to those who have nothing else to do but to render direct service, and who think they are doing nothing else. 追記 この部分の訳、読者から適切な訳をいただいたので全面的にその方の訳に変えた。〈9/11記す

※Godhold Beck(16)
 目は口ほどにものを言うというのが日本人の常套表現であろう。しかし、手もまたその人をあらわすとは上述のハヴァガルの指し示すところであろうか。

 ベック兄と会った人は多くの人がその手の温かさ・包容性、握手したときの力強さを指摘する。手はベック兄にとって大きな表現手段であったと言うべきか。

 イエス様はその御手でもって多くの人を、本来触れては病気が移ると思われていた人々にも積極的に近づかれ、逆にいやされたことが聖書のあちらこちらに言及されている。ベック兄もその伝を地で行かれた感じが私にはする。その上、次のようにも言われている。「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい〈1テモテ2:8〉。」これまたベック兄にふさわしい聖書のことばでないだろうか。

 追記 この日夜の家庭集会があったが、その席上で一人のご婦人が何年か前、もう召されたお父様が82歳の時、ベック兄に交わっている間であったろうか、じっと手を握られていて、その暖かさが歳とって手ももう自然と冷たくなっている自分に大変有難かったと述懐されたことを私に話してくださった。すでに上記のように記していたが、そのご婦人は私がブログでそのようなことを話題にしているとは思いもされていなかっただけに、折角だから、このことも付記しておく。〈9/11記す〉) 

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