2024年6月12日水曜日

愛の絆ここにあり


 今日の写真は、脇目も振らず、ただ一心にお母さん鴨に付き従っていく10羽の子がもたちの勇姿です。そこには相互信頼の深い絆を感じます。実は画面右は田んぼの畦道になっていて、画面の右側に垂直に走っています。初め、遠くから眺めると雄と雌の鴨二羽が見えるだけでした。いったい子がもはどこに行ったのだろうと、その畦道伝いに近づきましたら、何と畦道には10羽がおとなしく集まって休んでいたのです。

 そうとは知らず、私が突然闖入したものですから、危険だと思ったのか、お母さん鴨が先ず畦道を水田へと降り、続いて10羽の子がもがそのあとに続いたわけです。一人お父さん鴨は悠然と畦道に座ったままでした。すべてを奥さんに任せているようです。私は、この母子の姿を見るにつけ、改めて母親の愛に対する畏敬の思いにとらわれております。こうして、10羽の子がもは、子がもで、着実に成長して行き、いずれ巣立ちの時を迎えるのですね。 一方で苗は日増しに成長していっているのですね。太陽と雨のおかげです。そして、古利根川の水を汲み上げては水田に流す、ポンプに毎日欠かさずスイッチを入れる老婆の方の配慮があってのことです。悠久な自然界の営みを思うて、秩序ある神様の愛を深く思わされます。

 ところで、私は、昨日から考えるところがあって『かたばみ』という木内昇(きうち のぼり)さんの小説を図書館から借りていたのに、読まずに返却期日が目前に迫って来たので、大急ぎで読み始めました。この小説は昭和18年(1943年)からスタートします。まさしく私の生まれた歳からのストーリーで、実に興味津々の小説であります。そしてこの本は全部で3章に分かれています。第1章が「焼け野の雉(きぎす)」第2章が「似合い似合いの釜の蓋(ふた)」第3章が「瓜の蔓に茄子」となっていますが、第2章まで読み終えました。全部を読み終えてからその感想をこのブログでご紹介したいと思いますが、今日は数日間観察しております、鴨の生態と共通するかのような言葉が、たまたま以下のように紹介されていましたのでその言葉を紹介させていただきます。(同書138頁より引用)

主人公の(山岡)悌子は国民学校の教師ですが、引率していた生徒を空襲で亡くします。守りきれなかった自分の責任を覚えるだけでなく、子を亡くした親の思いを人生の先輩、のちに不思議な導きで義母となる(中津川)富枝から聞かされるという場面での話です。時は昭和18年です。

「おかしいわよね。御国のために、どうして命を捧げないといけないのかしら」
静かだけれど、奥底に強い憤りをはらんだ声だった。
「本当はみんな、自分のだいじな人には生きてほしいと願っているのに、そんな当たり前のことさえ、口にできない世の中なんて」
富枝がこんなふうに、はっきり世の中を批難するのははじめてのことだった

「あなたは『焼け野の雉、夜の鶴』っていうことわざをご存じ?」
悌子は黙って首を横に振る。
「雉というのは、自分の巣がある野原が燃えているさなかでも、子供を救うため巣に戻るんですって、鶴もね、凍えそうな夜に羽で覆って雛を守るというの。子供のためなら身を挺す、っていう親心を喩えた言葉なのよ」
腿の上に置いた手を、富枝は強く握り合わせてから続けた。
「亡くなったお子さんの親御さんは、自分があの日の空襲の中へ飛び込んでいってでも、お子さんを救い出したかったと思うのよ。あの日に戻って子供を助ける空想を、きっと繰り返し、繰り返ししていると思うのよ、かなわないことだとわかっていても、そうせずにはいられないのよ。そういう空想をすることは、とっても苦しいことなのに」
現実を頑なに拒むような、賢治の母親の顔が浮かぶ。・・・・

 私の家では、この二月八日に誕生した孫が少しずつ成長しております。今日(こんにち)、その有様はLINEで日々知らされる時代になりました。その中で初めて母親となった次女は日々悪戦苦闘しながら母親としての自覚を深めつつあるようです。明日はその孫を見せに次女家族が来る予定です。どんな風景がそこには見られるのか大いに楽しみです。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(新約聖書 ヨハネの福音書 15章13節)

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3章16節)

0 件のコメント:

コメントを投稿