2024年6月15日土曜日

小説『かたばみ』の素晴らしさ(中)


 今朝も鴨親子の姿を水田で確認できました。それにしても子育てとは何と忍耐のいる働きなのでしょうか。母鴨は子鴨をじっと眺めて居り、いざという時に備えているようですし、何もしていないかのお父さん鴨は母子から距離を置きながらも、決して離れることのない姿を見せてくれました。(実は、お父さん鴨はこの画面の左隅の上あたりにいるのですが、残念ながら、この画面には写せていません。「影」の人物です。)

 このような鴨家族に比べて、もちろん人間家族はそれ以上に愛の絆で結ばれた家族であるに違いありません。小説『かたばみ』には時代に翻弄されながらも誠実に生き続けようとするその家族の実相を描いている作品です。

 自らが行く末は結婚をと夢見ていた幼友達が、長ずるに及んで別の女の人と結婚してしまう。それだけでも、その目にあった当の女性にとってはとても耐えられないことでしょう。それだけでなく、事もあろうか、その好きな人は敢えなくも遺児を残して戦死してしまう。その遺児を引き取って育ててほしいとは、親しかった幼友達の相手の家からの立っての申し出であったとは・・・。でも、これほど矛盾したことはないのではないでしょうか。

 大事な人を結婚で失う。それだけでなく戦争で失う。大事な人が自分にとってかけがえのない人であるだけに余計にその悲しさは募るものです。そして、その愛が本物であるかどうかを試すかのように、その遺児を我が子として育てて行かねばならないのです。しかも、自らが選んだ結婚は、別人との成り行きの結婚であり、果たして夫婦としてうまくやっていけるか全く自信の持てない結婚生活なのです。読者にとっても、読んでいてきわめて危なっかなしい結婚に見えるのです。しかし、作者の描くこの両者の結婚は第二章の題名が「似合い似合いの釜の蓋」とあるように、まさに天与の賜物である愛が働いて、妻だけでなく、夫も妻が好きだった人の遺児を、共に喜んで受け入れ、我が子どもとして育てるのです。

 その子育てがいかに波乱を含みながらも順調に育って行ったか、そのことを描いたのが第三章の「瓜の蔓に茄子」という題名そのものの展開が描く子育ての数々の場面です。しかもこの章はその息子「清太」の立場から見た家庭の様子を語らせるのです。複眼思考という言葉がありますが、物事を一面からだけ見るのでなく、多方面から見て行くのです。

 この作品自体に登場する家族は岐阜にいる山岡悌子の家族、同じく岐阜の悌子の幼友だちの神代清一の家族、悌子が結婚に導かれる東京浅草の中津川権蔵の家族、権蔵の妹で東京小金井で惣菜店を営む木村朝子の家族(ご主人は後に復員してくる茂樹)など実に数家族にすぎませんが、それぞれの家族がいろんな重荷を担って、歩むうちにそれぞれ個々人としての人格形成がなされていきますが、作者はそれを一面的に描こうとはしていません。一番感心したのは、木村惣菜店の姑ケイが何となく意地汚く描かれているが、最後の方に行くと彼女がそうせざるを得なかった事情が明らかにされるにつれ、愛される姑像へと私のうちで変わって行った点です。

 その作者の精神、人を差別なしに受け入れて行こう。喜びも悲しみも共にして行こうという精神に満ちています。私にとってこの点が、作品を読みながら、言外に最も学ばされた点です。だから昨日の写真にはカラスを載せました。

 さて、母である悌子は体格に恵まれ、かつては槍投げ選手でもありましたが、父親である中津川権蔵は文弱でキャッチボールでさえままならぬ、運動苦手の人です。ところが二人が養育した「清太」という子どもは父権蔵と違って大変な野球の名投手として大活躍し、中学の都の大会で決勝戦まで進む逸材として育つのです。これはまさに「瓜の蔓に茄子」であります(それもそのはず、戦死した彼の産みの父は岐阜きっての名投手で甲子園でも六大学でも活躍する名投手神代清一だったのです。)

 ところが、その小説の終局場面でその清太自身が、自分のお父さんお母さんは生みの親でないと勘付くことから、この家庭は大きな試練に直面するのです。清太自身の煩悶はまさに思春期の青年が必ず経験することではありますが、このことはひた隠しに隠して、産みの子としての養育に懸命になっていた権蔵・悌子夫妻を一挙にどん底に突き落としてしまう出来事です。もちろんその前にその事実を知った「清太」がどん底に突き落とされ、それまで熱心に続けていた野球部を退部すると決断するに至るほど、少年の苦しみも深かったのです。

 私が涙を流すことが二度三度あったと前回書きましたが、このようなどん底から中津川一家がものの見事、立ち直る場面でした。それはどのようなことなのか、それは読者ご自身がこの本を手に取られ、是非お読み願いたいところだと思っています。意外と言えば意外ですが、十分志向できる落とし所です。こうなきゃ小説は成り立たないと思わせる幕切れでした。

 私の今日の聖書通読個所の一つは士師記14章、15章でしたが、私にとってやはり『かたばみ』に劣ることのない、いや遥かにまさるのが聖書だと改めて実感させていただくみことばの数々でした。最後、その一部分を写させていただきます。

サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。(旧約聖書 士師記14章1〜4節)

隠されていることは、私たちの神、主のものである。(旧約聖書 申命記29章29節)

0 件のコメント:

コメントを投稿