梅雨入りへ 九羽の鴨 飛沫上ぐ |
そのうち、バシャンと大きな音を立てて、我が自転車が、前カゴに乗せていたカバンもろともざんぶとばかり田んぼに倒れ込んでしまいました。その音に驚いて子鴨たちは一斉に右の方(親鴨の方)に逃げて行きました。こちらはもはや、鴨どころでなく、田んぼに放り出された自転車とカバンを引き上げるのに精一杯でした。そしてその後始末たるや大変でした。おかげでカバンに入れていた聖書、聖歌集、ノート、iPadなど大切なものが大なり小なり水浸しになったからです。
ハンドルはもちろんのこと自転車全体がどろんこになって、帰るに帰れず、携帯で家内を呼び、協力を得、何とか収めることができました。辛うじてこの写真が最後の一枚として残りました。私としては損害は大きかったですが、子鴨は十羽の鴨だったのに一羽足りず、九羽の子鴨になっていましたが、子鴨の成長をこの目で確かめ得たのだから大満足であります。まるで『九人の子ども』に合わせるかのように『九羽の子鴨』の出現の出来事ではありませんか。
さて、今日の『九人の子ども』のお話の題名は「ある朝」です(同書99〜103頁より引用)。長い文章でお読みなさるには忍耐がいるとは思いますが、九人の子どもを持つ母親が、忙しさの中で忘れていた、主イエスさまのくださる平安・愛をいかにして取り戻したのか、私たちも味わいたいものだと思わされます。
お母さんが靴のひもをぐっと引っぱると、ひもは切れてしまいました。そのとき、お母さんは急に何もかもいやになってしまいました。このはき古したベキーの靴、階段の上のゴミのかたまり、果てしない皿洗い、毎日毎日の洗たく物、どうしていいかわからない気持ちです。みんなが一度にだれかを待っているのです。
「あんまりだわ。」お母さんの目に、思わず怒りの涙がこみ上げてきました。「よその子は、こんな古い茶色の靴じゃなくて、きれいな色の新しい流行の靴をはいて日曜学校に行くのに。ベキーにもあんな靴をはかせてやりたいわ。」
「それに、よその家は、いつももっときれいにしているのに。お昼を食べに行ったり、会合に出たり、買物に行ったり・・・。」お母さんは、自分の家の毎日毎日の生活を思い浮かべながら、胸の中でこんなことを考えていました。
それからあわてて朝食のしたくにかかりました。そしていつものように適当に料理をして、ガス台と食器戸だなと流しの間をグルグル歩き回って、台所とテーブルとの間を行ったり来たりしました。
お母さんはこのとき、目の見えないロバの話を思い出しました。そのロバは、毎日毎日グルグルと行ったり来たりして、大きな寺院を造る石を運んでいたのです。時がたって、人々はその堂々とした大きな建物に驚嘆しましたが、その石をひとつずつ運んで積み上げていったロバのことを覚えてくれた人は一人もありませんでした。
しかし、この話は、お母さんを少しも慰めてくれませんでした。「私はロバになりたくないわ」と、元気なくお母さんはつぶやきました。「たった一度でいいから、一日中、散らからない日がほしいわ。」
テーブルの準備ができました。じゃがいもが湯気をたてています。パンも焼けて、うるさい連中を待っています。コーヒーもできたようです。お母さんは、子供たちを呼びました。
「日曜学校で教えたり、一つのグループを指導したり、何かそんなことをしてみたい。」そんなことを考えていると、アイロンをかけなければならないワイシャツのことを思い出しました。それから「修理品」の札のついたボール箱のことも、思い出しました。その箱の中身は、多くなっても、決して少なくなることはありません。あっちにもこっちにも、しなければならない仕事が山のようにあるのです。
「どんな人でも『荒野の体験』をするのだわ」と言いながら、お母さんはモーセのことを思いました。「いつか、あなたは自由になりますよ・・・・きっと自由すぎるくらい自由に。」「それはそうでしょうけれど・・・」とお母さんは、ますますいらいらしています。「だけど、年がら年中、砂漠の中にばかりいたら、いやになってしまいます。」
「きれいなワイシャツあるかい?」お父さんが呼んでいます。
「目の前にあるじゃないの。ほら、いすの背中にかかってるわ。」
男の人って、どうしてこう捜すのがへたなんだろうと思いながら、お母さんが答えました。
それから下に駆けおりて行って、九枚のお皿にじゃがいもを分けました。ミルクのびんが温まったので、ジェーンが、泣きわめいているタディーのところに持って行きました。
「ほかの女の人は、毎日曜日にバイブルクラスに出られるのに・・・・」と、お母さんは思いました。「ほらジョン、もっとよく靴ずみをつけて磨きなさい。ジョーはどこへ行ったの? どうしてジョーは靴を磨かないの? べキー、アネットとそこにいたらじゃまよ、どいてちょうだい。お母さんは忙しいのよ。」
お母さんは、柔らかな髪のタディーが、小さな頭をすり寄せてくるところや、四人のチビさんのお風呂に入った時のかわいらしかったことなど、頭の中から押しのけようとしました。
「確かに、あの子たちはかわいいわ。それはわかります。でも、この疲れや、いつも追いかけられるような気持ちはいやだわ。」
それからみんな朝食の席に着きました。お父さんは、聖書を開いて、マリヤがキリストを愛するあまり、高価な香油を惜しげもなく主に注いだ所(ヨハネ12:3)を読みました。香油は、マリヤの持っているいちばんたいせつな宝だったのです。けれどもマリヤは主に感謝し、心から主を愛していました。
お母さんの心にこもっていた怒りの気持ちは、いつのまにか消えてしまいました。疲れも無くなってしまいました。主は私を愛してくださるのだ、主は私を理解してくださるのだ、という思いが心の中にわいてきて、耐えられないほどに迫ってきました。お母さんは、「どうしたの?」と子供たちに聞かれるのを恐れて、目をつぶってあふれそうになる涙を押さえました。
「主の愛のために・・・主の愛のために・・・」と、心の中でくり返しました。すると、ロバは栄光に輝き、砂漠は甘いにおいの花畑になったような気がしてきました。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(新約聖書 ヨハネの福音書12章3節)
以下は「我田引水」的な変な説明で恐縮ですが、私は一枚の写真を撮るために、自転車、カバンもろともに田んぼに投げ出され、少なからざる損失を受けました。しかし全損失ではありませんでした。代用品があるからです。それよりもかえって一枚の写真を撮れた喜びに満たされています。
一方、上掲のマリヤはイエスさまを愛するあまり、自ら持てる宝もの、香油を全部無駄にしたのです。明かに全損失です。代用品はありません。しかし彼女の、全損失を顧みないで自発的にささげる心はますますイエスさまを愛する思いで満たされたのではないでしょうか。
何よりも『九人の子ども』を抱え悪戦苦闘をしていた著者ドリス・オルドリッチの心に、上掲のマリヤの思いはストンと落ちたのではないでしょうか。このような話に満ちている、子どもを見る目、また己を見る目には、もっともっとたくさん教えられるところがありますが、今回は五十六話のうちのわずか三話だけの紹介となりました。また機会があればご紹介したいです。
0 件のコメント:
コメントを投稿