2024年6月16日日曜日

小説『かたばみ』の素晴らしさ(下)

 このユニークな表紙絵は、裏表紙と表裏一体となってこの物語の全て(結末)を語ろうとしています。すなわち表紙絵は主人公悌子の「息子」清太の父とのキャッチボールを前にした姿であります。裏表紙は無精髭から父権蔵の姿に違いありませんが、清太の投げる球を受け取るべく待機しているのでしょう。以下はこの小説の最終頁の叙述です(『かたばみ(※1)』株式会社KADOKAWA発行 同書554頁〜556頁)。

 清太は勢いよくボールを投げた。パシッと権蔵のグラブが派手な音を立てる。
「痛ぇつ。よくこんな球投げられるな」
「きっと父さんももっと練習すれば、このくらい速い球が投げられるようになるよ。僕から受け継いでるんならさ」
 清太は冗談めかして言って、ケラケラと甲高い笑い声を立てた。そう言われて権蔵は、ムキになったのだろう。やたら大きく振りかぶって投げ返す。フォームが整っていないから、力がボールにうまく伝わらず、叩き付けるようなワンバウンドになった。
ーー明日はきっと、ひどい筋肉痛になるだろうな。
 悌子は夫の形相を見詰めながら、笑みを漏らす。でも、少々おかしなフォームでも、きれいな軌道を描かなくても、球はちゃんと清太のもとに届いているのだ、そうして清太は、しっかり球を受け止めている。それで十分だという気が、悌子にはしていた。
ーーこれが、うちの家族なんだから。
「清太、足の調子はどうだ!」
 権蔵が呼びかける。
「痛くないよ。変な感じも、もうない」
 清太が元気に答える。
「もう大丈夫そうね。球筋もぶれてないし、フォームも怪我の前と変わらないから」
 悌子は太鼓判を捺した。
「そしたら、今日の昼からの練習、行ってもいい?」
「うん、でも軽い調整くらいにしとくのよ」
「わかってる」
「よかったな、また野球ができて」
 権蔵が言うと、清太は勢いよくうなずき、
「あの日負けて、よけいに野球が好きになった気がする」
 晴れ晴れとした顔で言った。
「じゃあ、そろそろ戻って支度する?」
 悌子の声に、清太はかぶりを振った。
「もうちょっと、父さんとキャッチボールしたい。少し速い球投げるよ」
 権蔵は一瞬ギョッとして体を引いたが、
「お・・・・おう、ドンと来いだ」
 と、胸を張った。
 清太は笑って、ほんの少し球威を増した球を投げた。権蔵はへっぴり腰ながらも両手で受け取る。バシンという心地いい音が濃い緑の中に響き渡る。
 悌子は、もう怖いものが飛んでくることのない、青く抜ける夏空を見上げた。はるか彼方に、入道雲がむくむくと湧きはじめている。

 以上がこの小説の最後の文章です。「もう怖いものが飛んでくることのない、青く抜ける夏空」とは、かつて昭和19年、B29の来襲で引率中の教え子を亡くした主人公悌子の述懐でしょう。それは作者自身の静かな反戦の意思表示でもあります(※2)。もちろん、それだけでなく、実子でないことを知った清太と自分たちの間の関係が揺るぎないものになったことの確信でしょう。かくしてこの小説は幕を閉じます。思えば、キャッチボールとは親子の間だけでなく、夫婦の間でも、いや家族を越えて人間同士が取り結ぶ愛の絆の実践の場の象徴ではないでしょうか。鴨の姿に血を分けた親子の素晴らしさを、過去眺めてきましたが、人間界にはそれを越える愛の交わりがあることを教えられました。

 ただ「事実は小説よりも奇なり」の言葉どおり、いかな木内昇さんも描き切れない実人生が私たちの周りには転がっており、人々が今も苦しんでおられるのも現実です。しかし、このような良質の小説を読ませていただくと人間愛も捨てたものじゃないと思わされるのです。触れられませんでしたが、清太とはいとことして育てられる木村惣菜店の智栄、茂生という姉弟との密度の濃い人間関係、戦時の通信機運搬の仕事から戦後はNHKの街頭録音に関わり、徐々に生きがいを見出す中津川権蔵。権蔵の母富枝の練られた品性など、いつまでも私の脳裏に刻まれることでしょう。

※1 「かたばみ」は戦中、食材も十分見当たらぬとき、使われたということと、その花言葉「母の優しさ」が作中に出てきたように記憶しています。なお、2023年11月18日の東京新聞のリアル読書会の席で作者である木内さんが次のように語っていることを知りました。
「書き始めてからある日、自宅の庭を見たら、かたばみがはびこっていて、葉が3枚なんですね。3人の家族にぴったりだなと。家族って永遠の命題で、いい面も悪い面もひきずって生きていかないといけない。」この話を紹介しながら、「かたばみってどんな花?」と散歩中にしつこく尋ねていた私に、家内が家に帰るなり、庭にある「かたばみ」を見つけ、「高宮(私の田舎)の中庭にはいっぱい生えているよ」と教えてくれました。ちなみに私の高宮の家族は3人でした。3人で互いに苦労したものです。このような「かたばみ」が持つ意味を父母の生前に知っていたらなあーと思いました。

※2 以前、木内昇さんはきわめて真っ当なことを表明されていました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/09/blog-post.html

 今朝の礼拝の席で読まれた聖書のことばを写しておきます。このみことばには、家族だけでなく、すべてをつつむ主のお住まいがテーマになっています。

万軍の主、あなたのお住まいは
なんと、慕わしいことでしょう。
私のたましいは、主の大庭を恋い慕って
絶え入るばかりです。
私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。
雀さえも、住みかを見つけました。
つばめも、ひなを入れる巣、
あなたの祭壇を見つけました。
万軍の主。私の王、私の神よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたの家に住む人たちは。
彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。

なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも、
そこを泉のわく所とします。
初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。
彼らは、力から力へと進み、
シオンにおいて、神の御前に現われます。
(旧約聖書 詩篇84篇1〜7節)

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