今日の写真は、悠々とヨット風カヌー(?)に乗って川下りを楽しんでいる三隻をキャッチしました(一隻は画面の左上、橋の下にその黄緑の帆が辛うじて写っているのですが・・・)。江戸期には、さぞかし米や酒などを満載した船が上り降りしていたのでしょうね。しかし今や水運は衰え、川を跨ぐ橋の上を走る道路を利用したトラック輸送が幅を利かせています。そんな時代への一プロテストとしてでしょうか。余暇を楽しむお三方のようです。
さて、こちら十羽ならぬ、『九人の子ども』の著者は果たしてどんな人でしょうか。ドリス・オルドリッチというのがその名前で、訳者の紹介によると、以前やはりこのブログでも紹介したことのあるイゾベル・クーン(※)のために、その当時高校生であった彼女が、他の二人の仲間と一緒にとりなしの祈りをささげていたということです。(※https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2010/02/blog-post_18.html )
原題名は『Life out of the Mixing Bowl』で、直訳するなら、『混ぜ鉢からなるいのち』とも『こね鉢からなる生活』とでも訳せるでしょうが、家事に育児に忙しかった著者の様子がそのまま伝わってくる題名です。しかし、訳者は直裁に『九人の子ども』として邦訳版を出されたようです。賢明なわかりやすい題名ですね。
五十六の話を通してお子さんがどんなお子さんだったか、想像しながら楽しく読むことができますし、何しろ子どもの心をもって、「こね鉢」とも「混ぜ鉢」とも称される家庭の大変さの中で、どのようにしてイエスさまが子どもたちの経験となって行ったのかを知ることのできる貴重な証です。本日のテーマは「門をたたく」です(同書96〜98頁から引用、文中登場しますのはアネット、バージニア、ティミーという三歳前後の女の子(?)とべキーという名前の子です)。
ふたごとアネットが、小さなテーブルの上にのって、熱心に天国のことについて話していました。お母さんは、お父さんのワイシャツにアイロンをかけながら、この子たちが何を言うのか聞いていました。
「そしてね、天国って、ここよりもきれいなのよ」とバージニアは、腕をふり回して、部屋のちらかった所を指さしながら言いました。
お母さんは、これからたたんでしまわなければならない衣類の山や、ベタベタした汚れのついたベキーのいすや、テーブルの上に残っている朝食のお皿などをながめて、「そうだといいわ」とつぶやきました。
アネットは、大きな茶色のひとみを丸くして、三歳の子らしい、いきいきとした表情で言いました。「そして、天国に行ったら、ご門をたたくのよ。そしたらイエスさまが『こんにちは、どなたですか』って言って、ご門をあけてくれるのよ。それから『お名まえは?』って聞いて、『さあ、お入りなさい』って言うわ。それでみんな入って、きれいなものをいっぱい見るのよ。」
ティミーとバージニアは、頭をふって賛成の意を表しました。そのようにして、子供たちは話し続けています。けれども、お母さんは、ちょっと手を止めて考えました。いいえ、私たちが、門をたたくのではありません。なぜなら、主は次のようにおっしゃったからです。
「見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。主が私たちの心の扉をたたいていらっしゃるのです。そして、今、自分の心の戸をあけて主をお受けした人のために、主は、天国の門を広くあけてくださるのです。
そして主は、「こんにちは、どなたですか」とはおっしゃらないでしょう。なぜなら、キリストを救い主として受け入れた人はだれでも、天国で閉ざされた門の前に立つことはないからです。
また「お名まえは?」ともおっしゃらないでしょう、なぜなら、「主はご自分に属する者を知っておられる」(2テモテ2:19)と書いてありますし、また、その人たちの名まえは「いのちの書」に書かれてあるからです(黙示録13:8)。
天のお父さまのみもとに行く道であり、救いと天国に至る門であられる主ご自身が、私たちのために備えてくださった場所に立って、一人一人をやさしく迎えてくださるでしょう。
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(新約聖書 マルコの福音書10章15〜16節)
0 件のコメント:
コメントを投稿