なぜか、今日はこの写真を選びました。「カラス」と言うと 、いつの間にか悪印象しか持たない己が思いを自戒するためにです。それは『かたばみ』という作品を通して自分が作者から語りかけられてきた成果かも知れません。
昨日三日がかりで大急ぎで読了した木内昇さんの作品は私の期待を裏切らないものでした。この『かたばみ』は一昨年から昨年にかけてでしょうか、東京新聞の朝刊に連載されたものが単行本として出版されたものです。毎朝読むことのできる新聞小説は作者の文章と同時に挿絵が載せられます。その中で作中人物の「山岡悌子」という類まれな体格と性格を持つ人物の存在だけはその当時大変興味関心をそそのかされた記憶があります。
しかし、その彼女の生きた時代が戦中のこともあり、じっくり後で読んでみようと思い、取り敢えず、切り抜きだけは続けようと丹念に続けました。しかし、この作品に取り組んだのは今回が初めてになりました。私はこの作品を読んで、少なくとも二、三回は傍目も憚らず涙を流さざるを得ませんでした。その涙は私の魂を浄化させるものでした。その意味でこの作品はエンターテインメント(娯楽作品)としての資格を十分備えていると思います。
驚くべきことは、作者が1967年(昭和42年)生まれだということです。私が大学を卒業して教員として実人生のとば口に立ったばかりの年です。その年に生まれた作者が、何とそれを去ること24年前、つまり私が生まれた1943年(昭和18年)から作品を紡いでいるという驚きでした。そして作者の語り口を通して私は一つ一つ、もう一度我が人生を振り返らざるを得ませんでした。
そして物語の設定は、私が経験した実母の人生とある意味で共通したものでありました。母は戦死で愛する夫を亡くしました。その戦死がなければ私という人間は誕生していないからです。と同時に不思議なことに、1967年(昭和42年)に教壇に立った私がその後三十数年近く経験した教育現場での葛藤は、ある意味で小説の主人公「山岡悌子」が経験することと共通していたからです。いや、坊ちゃんの「赤シャツ」以来、すなわち明治以来、教育現場での非喜劇は今日も続いていると言って良いんじゃないかと思わされました。
それにしても作者の力量は改めて大変なものだと思わされました。一年間という日々、朝刊の連載小説は一日一日が勝負であります。かつ全体として描きたい点が明確でなければなりません。私は今回読みながら、ある時は落語を聞かされているように精神がリラックスできる場面がふんだんにあることに気づかされました。作者としての構想がしっかりしているからこそ、この遊びもできるのだと感心しております。
さて、前口上が長くなりました。明日はその梗概について述べてみたいと思います。昨日、聖書通読個所の一つに士師記10章、11章がありました。そこに登場する「エフタ」はこれまた大変な悲劇の只中にあった人物です。しかし、主はそのようにして彼を用いられるのです。
さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。・・・エフタは再びアモン人の王に使者たちを送って、彼に、エフタはこう言うと言わせた。「・・・私はあなたに罪を犯してはいないのに、あなたは私に戦いをいどんで、私に害を加えようとしている。審判者である主が、きょう、イスラエル人とアモン人との間をさばいてくださるように。」アモン人の王はエフタが彼に送ったことばを聞き入れなかった。(旧約聖書 士師記11章1節、14〜15節、27〜28節)
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