2024年6月17日月曜日

鴨家族に幸あれ


 このところ、朝の聖書通読個所を読み、その後1キロ先の古利根川の川縁まで自転車を走らせ、決まって土手際にある社(やしろ)に乗り捨て、先ずは鴨の住みついている田んぼを見まわることが習慣になりました。その後、土手に上がり、二つの橋を利用して古利根川沿いに、ほぼ2キロを散策するというスタイルです。

 今日は遠くから窺うかぎりお目当ての鴨家族はその田んぼにはいませんでした。今日の写真は昨夕のものです。日曜日は礼拝があるので行かず、夕べに撮影したものです。もっと近くに寄って、しっかり子鴨の様子をとらえたいのですが、iPhoneの限界と鴨家族を無用に慌てさせないという気配りをしました。この時は、お父さん鴨はいませんでした。「まったくしょうがないな、親父!」と心の中で嘆息しながら、その場をあとにしました。

 写真で見るかぎり七羽は確認できますが、あとの三羽は重なっているのか確認できませんでした。今日は鴨家族の居場所にいないので、土手から見通すことのできる別の個所から見ると、雄と雌の鴨が遠目に見えました。やはり雄は家族から離れないでいるんだとこの時ばかりは嬉しくなりました。きっと子鴨はその辺にいるのだろうと期待しながら。それにしても一人前の鴨として巣立つのに随分と日にちがかかるのですね。

 土曜日のことだったでしょうか、鴨家族が田んぼにいないので、いよいよ巣立ったんだと思いました。その証拠に、古利根川に泳いでいる一羽の小さな鴨を見つけた時には大変な感動を覚えました。田んぼで餌を探して生きていた鴨が古利根川という大海原に堂々と生きていると思ったからです。左の写真はその時、逃すまいと思って橋の上から撮った写真です。実際は私が観察している子鴨たちはまだまだ親の世話にならねばならなかったのです。でもいずれはその時期を迎えるのですね。そして今年は梅雨が遅れているという特別な6月です。十羽のヒナを抱えて鴨家族が無事に巣立ちを経験して欲しいなと切に思います。

 孫娘は四ヶ月経ちました。木曜日やってきた時は、やはり普段見慣れない私たちには緊張するようです。人間の成長もやはりゆっくりと両親や周りの人の愛を受けながら成長していくのですね。81歳78歳と年輪を重ねる一方で、益々老化が激しくなる私たち夫婦ですが、鴨家族、娘家族の子育てが祝福されるようにと祈らずにはおられません。

 今朝の聖書箇所は士師記17章18章でしたが、次のみことばに目が留まりました。

このころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(旧約聖書 士師記17章6節)

ミカ母子やダン部族の神を恐れない人々の生活の実態が縷々述べられているところにポツンと書かれていました。大変な警告のことばですね。自戒したいです。

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