『九人の子ども』という本を知ったのは、もう随分昔のことです。家の本棚にありましたが、(家内は読んだのでしょうが・・・)私が読まないうちにいつの間にか姿を消してしまいました。その後、今から10年ほど前に、古本で見つけ、再度購入しました。ところが相変わらず、私にはその本に手を伸ばそうとする気が起こりませんでした。その私に食指が動いたのは、実に今回の「十羽の子鴨」の存在でした。十羽の子鴨が母鴨によって大事に育てられていく過程を見るにつけ、その神秘さに目が開かれると同時に、「あっ、そうだ! 『九人の子ども』という題名の本があったっけ、人間はどのようにして一人の母親が九人もの子どもを育て上げられたのだろうか?」と考えたからです。
そしてこの本を今週初めてひもときました。読んでみて、今の私にぴったりの本でした。そしてこの本に接する前に、木内昇さんの『かたばみ』を読んだこともタイムリーでした。薄々感じていたこの本の素晴らしさに目が開かれつつあります。今回の東京都知事選には五十六名の方の届出があったそうですが、この本には全部で五十六の話が載せてあります。以下の文章は「聞かれない祈り」と題する話です(同書67〜69頁より引用。文中出てきます、ジェーンは長女で、ジョンとジョーは二人の弟で、この話の中には登場していませんが他に四人いるはずです。したがってこの時はまだ全部で子どもは七人です。)
一日じゅう雨が降り続いたその日も終わろうとするとき、お母さんは疲れてしまったので、ジェーンのベッドに腰を降ろしていました。青いすじのある壁、白いひだのカーテン(これもそろそろ洗わなければなりません)が、ゴタゴタした台所から出て来たお母さんには、心地よい変化でした。下にある洗たく物は、これからたたんで片付けなければなりません。それから、家の中を整理して、ジェーンとジョンの通学服を、そろえておいてやらなければなりません。でも、今、ほんの少しの間だけ、ここに座って、いちばん上の子と話すのは、休みになります。ほかの六人はみな眠っていました。
七歳の子は、どの子もそうですが、ジェーンは何でも聞きたがります。
「どうして、イエスさまは、私たちのお祈りを聞いてくださらないの?」ジェーンは少し怒ったように言いました。
「どうして? 聞いてくださるわよ。」
「ううん、いつでもは聞いてくださらないわ。ジョーなんかさ、何かなくすたびにお祈りしているけど(全くジョーはよく物をなくします)、出て来ないわよ。それから、こないだ、すごい風の吹いたとき、ジョンといっしょに学校から帰って来るの、とてもこわかったのよ。それで、二人で溝の中へ降りて、イエスさまに、どうぞ風を止めてくださいってお祈りしたけど、止めてくださらなかったわ。だから、ビュービュー吹く風の中を帰って来なけりゃならなかったのよ。」
「だけど、あなたたちは、安全に家に帰れたのでしょう。イエスさまはね、ある時は、私たちから苦しいいやなことを除いてくださるけれど、ある時は、その中を通らせようとなさるのよ。でも、いつもいっしょにその中を歩いてくださるわ。それは、苦しい、いやなことを通して、イエスさまのことを、もっとよく知ることができるようになるためなの。」
「そう?・・・・・」ジェーンは答えましたが、まだよくわからないという顔をしていました。けれども、大きくなるにしたがって、いろいろなことを学んで、次のように心から賛美することができるようになるでしょう。
旅をしている毎日を 感謝します。
かわいた砂漠の中で
私は熱心に求めます。
でも 私を満たしてくださるのは
ただ、あなたの愛だけです。
昨日も子鴨を求めて、田んぼに出向きましたが、親鴨が別の田んぼに最初一羽いたのを見つけました。しばらくして、私が近寄ろうとするのを警戒してでしょうか、後ろの方からもう一羽が飛来してきました。どちらが雄か雌だったのかは遠目でわかりませんでしたが、肝心の子鴨はいませんでした。それで昨日は橋の上から見た、二、三日前に子鴨らしき鴨数羽が泳いでいたところを撮影しました。あいにく昨日は風が強く、波が出ており、鴨は見当たりませんでしたが・・・
前回、「川守稲荷大明神」の写真を載せ、「悲願込め 川守稲荷 明神」と書きましたが、このような五七五は単なる語呂合わせに過ぎず、愚作中の愚作で申し訳ない思いがしております。ただ、これを機会に「稲荷」「お稲荷さん」について少し考えることができました。特に前掲の「聞かれない祈り」の要旨と「川守稲荷大明神」の霊験とを比較してみるとその違いが分かるのではないでしょうか。以下のイザヤ書のみことばはその日私が通読の時、読んだみことばです。このことも素晴らしい主のご配慮ではないでしょうか。
わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々。」と言う者は、退けられて、恥を見る。(旧約聖書 イザヤ書42章16〜17節)
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(新約聖書 1ペテロの手紙1章8節)
お母さんは、長女ジェーンの「なぜ祈りが聞かれないのか?」の疑問に対し、素晴らしい 回答をしていますね。神により頼んでいるこのような親こそ 確実に子供を神のもとに立ち返らせることができるのではないでしょうか。🙏
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