2016年8月21日日曜日

沈黙が拒否となる時

八ヶ岳連峰を浅間サンラインから遠望※

ダビデ王もまた、大いに喜んだ。(1歴代誌29:9)

 私たちの王のご自分の民に対する喜びを、未来だけのものとして考えないようにしましょう。私たちが「傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせていただく(ユダ24)」その日を大いに待ち望むことができないからと言って、主をたいそうしばしば悲しませた私たちが、いや私たちでさえ王に与えることのできる現在の喜びを見過ごすことのないようにしましょう。

 他のところで私たちは罪人たちを悔い改めさすことによる天使の喜びを耳にします。ここでは主がささげられたものによる御使いの王の喜びを垣間見ます。通り道全体をごらんなさい。その道は典型的な光に満ちています。そしてそれを私たちの教訓にしましょう。「きょう、だれか、みずから進んでその手にあふれるほど、主にささげる者はないだろうか(1歴代誌29:5)。」

 この場合沈黙は拒否になります。もし私たちに意欲があるなら間違いなく応答がなされるにちがいありません。あなたには意欲がありますか。もしあるとすれば、いつですか。王の質問はいつかのことについて何かを言っているわけではありません。「今日」なのです。そしてその質問はあなたに置かれているのです。もし以前のものでないなら、あなたの耳には今も鳴り響いているでしょう。

 あなたの奉仕は主の「今日」、そしてこれ以降のことなのでしょうか。それともそうでないのでしょうか。「今日」は「主の心の喜びの日」ではないのでしょうか。あなたは今日、主に対する奉仕をささげませんか。というのはその時、「主は救い、喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる(ゼパニヤ3:17)。」からです。

 私たち自身の心が主の奉仕の強い喜びで満たされるように、私たちが主の喜びは私たちの喜びよりももっと大きなものであることを思い出す時、さらに強力な輝きがやってくるでしょう。なぜなら、主は主の仲間たちにまさって喜びの油を注がれる方だからです。

おお たましいの喜び 真実で唯一の光なるお方が
輝く光を注がれ あらゆるものを 新しく輝かせなさいます
イエス様の愛がその圧倒的な力のうちに照り輝く時
秘かで優雅な交わりがあらゆる過去の時間を神聖化する時です

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-21-when-silence-is-negative/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97398です。

※前日は生憎雨だったが、天皇ご夫妻は上田市から軽井沢へ浅間サンラインを通って移動されたので交通規制がなされた。私はまだ一度も天皇にお目にかかったときはないが、家人は二年ほど前、この浅間サンラインで美智子さんを見たと言って喜んでいたことがある。ましてや上述の王なる方にまみえる時、いかほどであろうか・・・

 さて「生前退位」のご意向はこの夏の多くの出来事の中のビッグニュースの一つであろう。 )

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