2016年8月26日金曜日

主の約束を握る

目を凝らし 数えてみれば 白鷺の 百羽越える 残暑の候(東武線足利市県附近車窓より)※

しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。(1列王紀8:66) 
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。(2ペテロ1:4)

 受け取らない約束は現金化されていない小切手のようなものです。 約束は私たちを完全な破産から守るのであって、単なる欠乏からではありません。しかし、もしそうでないなら、なぜあなたは約束を受け入れないのですか。私たちにどんな権利があって、主の誠実な約束の一つを取り出して、主が約束を実現してくださると期待できないと言えるでしょうか。

 そうすることに対して私たちはどんな弁護を持ち出し、どんな釈明をでっちあげることができますか。もしあなたが、主はみことばに対して真実でないという経験を訴えるなら、私もあなたに私の経験を訴え、あなたに問いたいです。 あなたは、かつてイエス様はあなたに対するいかなる約束も実現し、あなたの信頼を裏切られないお方だとほんとうに信頼していましたか。

 あなたが主が守って下さるとほんとうに信頼したことはどんなことでも、主は守って下さいました。守られていないことがらは決してほんとうの意味であなたが信頼していなかったからです。この過去の経験を進んで精査しなさい。そうすれば、あなたの不信仰に反対する証言が得られるだけで、主に対する完全な信仰に反対する証言は決して得られないでしょう。 

主よ 私はあなたが真実であると証言します
あなたのすばらしいお約束は一つも違いませんでした
ですから 私は鐘を鳴り響かす申し立て人を送りたいです
あなたのお名前を知っているすべての人に向かって
 
書かれたみことばは ことごとくあなたの真実をあらわすもの
終日あなたの愛あるやさしさが冠となろうと 告げ知らせたい

私とともに言って賛美してください
「主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで(詩篇100:5)
その真実は私の全生涯の全頁に書き記されている」と

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/august-26-claim-the-promises/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97403です。

※Godhold Beck (4)
 昨日、今日と残暑が厳しい。ベック兄が召されて早や四日。日ごとにその恵みを数える。26年前どんなメッセージをされていたか、古いテープを探した。一本見つかった。「オネシモ」という題名で1990年6月7日の日付だった。我家での家庭集会に初めてベック兄が来られたのは5月22日だから、きわめて初期のものに違いない。その録音テープはベック兄の声と競争するかのように子どもの声、犬の声、電車の通る音が騒がしい。ゆっくりと語られるベック兄の声がそれらの音に委細構わず諄々と行き渡る。聞いている人々はしわぶき一つ立てず、聞き耳を立てている姿が何となく想像された。

 そんな時に、家内の古い友人から、ベック兄の召天を知らずに電話をかけて来た人がいた。その友人は最近いただいた本を読んだが、今まで意味がわからなかったが、家庭生活の苦難を通してやっと意味がわかった。それは「オネシモ」について触れたメッセージだと言い、ベックさんはそんなメッセージをあなたの家庭集会でしているのかと聞いて来たそうだ。

 今しがた懐かしくそのメッセージを聞いたばかりの私たちに、召天を知らずに、電話をかけてきた人がその雑誌のバックナンバーを教えてくれた。『主は生きておられる』の37号の「主なる神の愛の意味と価値」であった。開けてみた。今聞いたばかりの26年前のあばら屋同然の家庭集会で語られた古テープの内容が寸分違わず文字で示されていた。永遠に変わらぬメッセージを伝えていたのがベック兄であることを改めて再確認する。それにしてもこのたまたま遭遇せる二つの事実にはびっくりさせられるではないか。

 召されたベック兄に直接その馨咳に触れることはなくなったが、今やそのメッセージを目で追うことができる。行きの電車で白鷺が車窓から見えた時には、気づかなかったが、帰りの電車で目を凝らし、さらにカメラに納めてみたら何と百羽以上はいた感じだ。馬の耳に念仏とは言え、いくら立派なメッセージを聞いていても、私たちの生活がそこに至らなければ理解できないのは当然だ。自分の生活の残された生涯、これまで以上にそのメッセージを追うことに忙しくなりそうだ。) 

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