もちろん、それだけでなく、私はその時、吉本隆明さんの長女であるハルノ宵子さんの著作である『隆明だもの』を読んでおり、その読後感をどのように自分の内側に内面化し消化していったらよいか思いあぐね、かつ願ってもない濃密な父娘関係についても考えさせられていたからです。
お嬢さんの方では、(多分)高名な父親の呪縛から何とか逃れたいという思いもあったでしょうが、父親の開放的な〈来る者拒まずという〉人柄もあって、吉本家には実にたくさんの有名、無名の方々が隆明氏との交流を求めて次々訪れられ、その現場〈嘘偽りのない人間関係〉の中でお嬢さんは人間心理の裏表を知りながら成長されて行ったようです。
そこに表現者として、一筋縄では決して行かない人間心理を熟知した吉本父娘の苦闘・研鑽があるのではないかと思わされました。隆明氏についての一連の文章はいずれも、吉本隆明全集の月報に編集者に請われてハルノ宵子さんが書かれた30篇の転載です(※2)。その最後は「読む掟・書く掟」という題名ですが、私にとって感銘を受けた文章でした。それは彼女がまだ無名の漫画作家であるときに、吉本隆明氏の長女であることを、知っている編集者が宣伝文句にしたかったのでしょうか、お父さんに何か一文を寄せてもらったらと言われて、思わず乗ってしまったことの顛末を記した文章です。(同書172頁より引用)
父の文章には、「はたして私は、この世界で娘と出会うことができるだろうか」ーーとあった。氷水をぶっかけられたように目が覚めた。大甘だった。私はこの世界では、まだ無名の一新人にすぎなかったのを忘れていた。ましてや、私が(編集者代わりに)仲介となって、父に文章を依頼するなど、掟破りもはなはだしい。思えば、父からあの言葉をくらったからこそ、私は(かろうじて)この世界で生きていられる。今は感謝しか無い。表現者として生きていく以上、この世界においては、誰に頼ることもできない。1人荒野を歩いて行く、それは途方もなく孤独な旅路なのだ。
極めて、ストイックな人間の在り方に触れた一文ではないでしょうか。昔、森有正が『バビロンの流れのほとりにて』という作品の中で、自己を問い詰め、問い詰める、思索の中で、突然「娘が自分を余り愛し過ぎないように気をつける」 という意味のことを語っていたのを思い出します。
考えてみると、冒頭の写真の父娘は肩を並べて、両雄相い並び立つ有様でゴールに向かって走っているかのようです。吉本父娘の間もそうだったのでしょう。そこに表現者としてのゴールを目指して生き抜こうとする姿勢があったことを思います。なお、この本にはもう一人のお嬢さん、吉本バナナ氏と姉のハルノ宵子氏の対談による父親の思い出が丁々発止よろしく、次々語られるものが、ハルノ宵子氏に対する編集者のインタビューと合わせて載せられていました。そして、このお二人の姉妹関係が微笑ましく、吉本夫妻は良きお子さん方を、しかも夫妻自身が奥様は句集を出しておられた俳人だったのですから、表現者としての十分なDNAが今も受け継がれているのだと思わされました。
私にもちょうどこの姉妹と同じように年恰好の違う娘が二人いますので、吉本姉妹の父親母親を見る目から、普段何気なく接している親子関係をも振り返る良い機会となりました。こんなふうに書いてはいますが、実はこの本も図書館で数多(あまた)の予約者の順番を経て手にした本でした。図書館のおかげでこうして様々な本を読ませていただく恵みを感謝するものです。なお同書にはハルノ宵子氏の本職である挿画イラストが随所に載せてありますので、それも十分見応えがあります。私のように図書館に予約してお読みになってみられればいかがでしょうか。
※1 すっかりいなくなったと書きました雁(鴨)ですが、昨日(5/9)散歩していて、一羽見ました。まだいるんですね、少し嬉しくなりました。「ひとりでどうしたんだ!」「はぐれたの?」私たちの会話でした。
※2 三十本の月報記事は、言うまでもなく、その全集が30巻から成り立っているということです。ちなみに、30篇の月報の題名(下線部は別のものからの転載)を以下書き写しておきます。内容が何となくお分かり願えるんではないでしょうか。
じやあな! 父の手 eyes 混合比率 ノラかっ 党派ぎらい 蓮と骨 あの頃 小さく稼ぐ めら星の地より お気持ち ヘールポップ彗星の日々 ギフト 空の座 花見と海と忘年会 '96夏・狂騒曲 幻の機械 魂の値段 境界を越える ボケるんです! 非道な娘 片棒 銀河飛行船の夜 蜃気楼の地 Tの悲劇 孤独のリング 科学の子 形而上の形見 一片の追悼 手放す人 悪いとこしか似ていない 読む掟・書く掟
詳しくはhttp://www.yoshimototakaaki.com/
見よ。すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。(旧約聖書 エゼキエル書18章4節)
兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(新約聖書 ピリピ人への手紙3章13節〜14節)
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