昨日は、ミンヘンママのお別れ会の席で、五女にあたるスーシーさんが挨拶された言葉を「母の日」にちなんで、ご紹介させていただきました。その中のポイントの一つは、主イエス様によって天国へと召された愛するお母様にご自分もまた天国で再会できるという主イエス様に対する感謝の表明だったのではないでしょうか。この確信を持つようにしてくださったのが、イエス様の十字架の死による私たちの罪の贖いと復活です。それゆえに、誰でもイエス様を素直に信ずる人はその場で直ちに、間違いなしに天国に行けるのです。それ以外の何の条件もいらないのです。
以前、と言っても8年前のことですが、ミンヘンさんの夫であるベックさんがその年の8月23日に召されるのも知らないで、私はその時、せっせとフランシス・リドレー・ハヴァガルの『霊想』を翻訳しながら、一方でそのお姉さんの「マライア・ハヴァガルの伝記」も併せて翻訳しては、このブログに載せていました。それは8月を遡ること、二ヶ月前の6月のことでした。私にとってその翻訳をとおしてキリスト者の死がいかに希望に満ちたものであるかを教えられた思いでした。そしてそれは私にとって、ベックさんの死に備える心の準備でもあったのです。ご参考のためにそのうちの一部6月15日の文章を紹介しておきます。お読みくだされば幸いです。
https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2016/06/blog-post_15.html
さて、しばらく、中断していた「キリストの復活」というメリル・C・テニーの著作の最終章「復活の最終目的」を引き続いて転写させていただきます。
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」(黙示21:5)
ヨハネの黙示録は、絶えず、多くのキリスト者にとって、神秘的なものとされてきた。それをめぐって、ばかげているとしか思えないような多くの本も著された。しかし一つの点で、すべてのキリスト者は一致している。それは、最後の二章に描かれている神の都こそは、キリスト者の最後の状態だということである。その信仰は、ヘブル人への手紙では、「この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです」と表現されている(13:14)。そこに私たちは、アブラハムが求めた「堅い基礎の上に建てられた都」、またイエスが語られた「父の家」を見いだすことができるのである。
神の都が、信者の最後に行き着く所であるとすると、それには必然的に、二つの結論が伴う。第一に、それが私たちの期待の目標であり、救いの冠である祝福を意味するものであるならば、それこそは、キリスト者の生涯の偉大な希望、また、動機を鼓舞するものでなければならない、ということである。ペテロは、私たちは「信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです」と言っている(第一ペテロ1:5)。そこは、私たちの市民権が登録されている真の母国であり、私たちはそれを今、外国にとらわれの身をかこつ者のように、仰ぎ望むのである。この地上の旅路を進めば進むほど、私たちは、この永遠の都の影を、熱心に捜す。神はこの国を、その贖罪の目的が完成される所として準備された。私たちはそこに行き着くまでは、完全にはならない。
第二の必然的結論は、ここに言われている国にはいるには、復活を通して以外に道がない、ということである。文脈を注意深く見るならば、この事実が明らかになる。19章から21章8節までは、一連の不断の幻の進展をしるすものである。まず、神が大淫婦をさばき、小羊の婚姻の時をきたらせたもうという宣言がなされている。大淫婦によって特徴づけられる不敬けんな社会は除去され、ここに小羊の花嫁として表されている敬けんな者の社会が、キリストによって公に承認されるのである。
征服者なるキリストが、次には、地をさばくために進み行かれる。地上の悪魔の使者たちは、そのとき火の池に送られ、悪魔自身は、「底知れぬ所」(黙示20:1、3)に閉じ込められる。キリストの支配の次には、サタンが解放され、断罪される。それからいよいよ、死せる者の大審判である。大いなる者も小さき者も、御座の前に立ち、開かれた書物にしたがってさばかれる。このさばきの恐ろしさは、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示20:11)と言われているほどである。この審判に続くものが、新天新地の創始と神の都の下降である。
この神の都が、祝福のうちに死んだ人々が現在いる所でないということは、次の二点から明らかであろう。第一は、それが大きな白い御座の前での審判の後のものであるということ、第二は、その前に復活が起こらなければならないということである。
黙示録21章9節から22章5節までにある都の叙述が、全体の明確な一部を構成するものであることは、事実である。文学的構造も、その事を物語っている。この個所は、「最後の七つの・・・」という句で始まっており、思想においても、「また、七つの・・・」で始まっている17章1節と平行性を示している。この二つの部分は、構造において、また内容において(それはある程度までであるが、と言うのは、一方では大淫婦のさばきが語られ、他方では小羊の妻の顕現が述べられているから)、平行関係を持っているようであるが、本文の言葉は、ここでも時間的要素を考えるとすれば、後者(小羊の妻の顕現)が時間的には前者(大淫婦のさばき)のあとに来ることを、明りょうに示している。更に、21章1〜6節の言葉は、新しいエルサレムの到来が、最後の審判のあとであることを指摘している。したがって、21章9節から22章5節までは、この事を更に確認するものである。論理的には、それは17章1節から21章8節までと平行的であり、時間的には、それに続くものである。そうであるとすれば、新しいエルサレムは、祝福のうちに死んだ者たちの現存する場所の描写ではなく、まさにこれこそ、神の地上におけるあがないの働きの完成後における最終状態の描写なのである。
更に、この最終状態は、復活に続くものでなければならない。20章4〜6節には、キリストのために苦難をなめた者たちの「第一の復活」が言及されている。彼らは、キリストの千年の支配のはじまりにあたってよみがえる。残りの死者は、この支配の終わりと大きい白い御座での審判の時までよみがえらない。とにかく、神の都は、よみがえりを経た人々の住居であり、復活した人だけがそこへの門をくぐることを許されるのである。もし復活が、霊的、肉体的新生、すなわち、罪人の神のかたちへの復元を意味するものであるならば、復活こそは、神の人間に対する最終目的へ向かっての入り口でなければならない。神はこの世を打ち砕き、それを、愛する者たちのために、再生したもうのである。
したがって、復活は、あらゆる永遠的な決着の実現へのかぎである。それは手段であって、終わりではない。現在のように弱く罪深い血肉が望むことのできない、神の完全な啓示を、受けることができるように、私たちを備えてくれる一つの方法なのである。
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