2024年5月16日木曜日

復活の最終目的(3)最終的満足の完成


今日は30年以上前に教会で親交のあった方から、お手紙をいただきました。たまたま半年ほど前にその方と路上でお会いし、翌日には春日部から他都市に引っ越されると知り、それでは永遠(とわ)のお別れになっては大変だとばかり、急いで私たちの証の載っている冊子を家に取りに帰り、慌しくしていらっしゃるお宅のポストに投函しました。その後、どうされたかとは思っていましたが、それ以上お尋ねすることもありませんでした。

その方が自筆の美しい便りを便箋4枚にびっしりと書いて近況をお知らせ下さったのです。そのお手紙の端々に現れているのは、その方の主への感謝の思いでした。長年、信仰に反対してきたご主人が、病を得て車椅子に頼らざるを得ない日々の中で、「礼拝に出たい」と言われ、結婚後50年にして、初めて夫婦で近くの教会の礼拝に出られるようになったというお証でした。心温まる思いにさせられました。

昨日は昨日で、もっとも近隣にお住まいで毎日のようにお交わりをいただいている方が、定例の家庭集会の場で(多くの皆さんの前で)正直な証をなさいました。ネットで全国の多くの方がそのお証を聞いてくださっていると思うと、これまた嬉しい思いにさせられています。

思いもしない恵みは主から一方的にいただけるものなんでしょうか。今日お載せしました「すみれ群」は一週間ほど前に古利根川の上流の河辺に忽然と私の目の前に現れた感のあるひとり生えの花です。さて、以下は『キリストの復活』の最終稿です。黙示録22章についてメリル・C・テニーによる的確な「神の都」と「復活」の関係が読み取れる論考ではないでしょうか。

 人生のおもな価値の一つは、それによって望みがかなえられるということである。願望の充足ということは、それ自体が悪であることはないが、ただ、神の位置を侵すならば悪となる。しかし、正当な生活欲求は、満足しうる回答を得るなら、快楽を味わわせてくれる。確かに神の都は、回教の言う楽園のように、この世で知られているあらゆる欲望やあこがれを、無制限に満足させてくれるものではない。イエスは、復活において、私たちの構造そのものが全く変わってしまい、ちょうがいも虫の生活を熱望することがないように、私たちは肉的な欲求を持たなくなる、と言っておられる。しかし他方、黙示録22章2節で「 毎月実ができた」と言われている木は、おそらく、永遠の、しかも飽きさせることのない快楽を描写しているものであると思われる。あきあきすることのない満足、けん怠を伴わない享楽こそは、私たちの分け前なのである。

 しかし、満足な願望の充足だけを意味するものではない。それ以上のものである。それは物事を、達成を見るまで建設的に助成する。人は、夢に描いた完全な絵をかき、完全な調べを作曲し、完全な大教会堂を建設しようとする。それに比べて啓示は普通、私たちの夢よりはずっと保守的である。しかもそれは、次のような含蓄ある言葉を言明しているのである、「もはや、のろわれるものは何もない」、また、「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」。

 「もはや、のろわれるものは何もない」。(黙示22:3)。これは、創世記3章17〜19節に直接言及した言葉である。「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」。

 のろいは、労働しなければならないという点にあるのではない。労働は、人が罪を犯す前にもあった。のろいは、労働の不毛性にあるのである。雑草や害虫、洪水や酷暑に戦いをいどまれ、最後に人間は、自分がしてきたのはただ、単調なほねおり仕事を長びかせただけなのではないかと思いながら、その生涯を閉じるのである。復活が開放してくれる世界では、このすべてが変えられる。のろいは解かれる。それで労働は、障害や失敗を見ることなく、十分な報いをもたらすようになる。農夫が、すべての穀粒があふれるばかりの収穫をもたらし、生産者が、きず物や不できの物を決して造らず、あらゆる努力が、それ相応の結果を確実に望むことができるとしたら、なんとすばらしいことであろう。きたらんとする神の経綸の中では、まさにこのような事が約束されているのである。

 「しもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る」(黙示22:3)。この究極の状態は、無気力な静止状態を物語るものではない。天国を、肉体を離脱した霊が、雲に乗って、ハープの弦をかなでながら、とりとめもない歌を永遠に歌っている場所として描くのは、とんでもないまちがいである。それはまさに戯画であり、また、真理にはほど遠い描写である。ここにあげた聖句は、積極的な活動を呼びかけている。神への礼拝は、天的楽しさの一断面以上のものだからである。確かに、そこでは、地上では知りえなかった敬けんさと献身とを伴う神礼拝と神への賛美とがささげられるであろう。しかし、そこには、他の活動の余地もあるのである。それがなんであるかは、まだわからない。それが、私たちが宣教師になって他の宇宙に行くことなのか、それとも、かつては想像することもできなかった資源や動力を用いて、全く新奇な世界の探検に乗り出すことなのか、などと推測したりすることは、愚かさの限りである。その事はまもなくわかる事なのである。疑いもなく、神は、それが明らかにされるとき、私たちを驚かせ、喜ばせようとして、それを今、秘密としておられるのである。しかし、一つの事だけは確実である。私たちの労働が、積極的、永遠的な価値を持つものとなるということである。そして、すべてがこのようにして最後的な完成を見る生活に到達するためには、復活の門を通らなければならないのである。

 もう一つの事だけを補足しておく。その満足は決して尽きないということである。「彼らは永遠に王である」(黙示22:5)。「よい事にも終わりがある」という格言がある。この世においては、これは真実である。きょうあった式典の感激は、あすの苦労にあえばたちまち忘れ去られてしまう。きょうの勝利で味わった満足も、あす敗北のうきめにあえば、その実を失ってしまう。一人物が勤勉さと好首尾とによって建て上げた事業も、後継者によってたちまち衰微、没落させられてしまうかもしれない。成功と失敗、勝利と敗北、目的達成と挫折は、寄せ来る海の波の連続のようなものである。ある一つの方向に、不断の、尽きることのない進歩を見ることは、この世では不可能なのである。しかし、神の都では、私たちは、栄光から栄光へと進む。「王である」とは、勝利の生活の不断の連続性を意味するものである。

 それは、神の復活の最終目的である。しかし、地上の物語との関係においては最終的なものでも、復活は、あがないが私たちに提供しているものとの関係においては、また第一歩を画するものでしかない。黙示を仰ぎ望んだ預言者は、見たことすべてを言葉に写す力を持っていなかったようである。そして、彼が用いえた、可能なかぎり強烈な色彩の言語で着色した絵画は、事実、現実にそぐわないものであると言われなければならないのである。しかし、その現実は、信じえないものではない。私たちは、もし、イエス・キリストの肉体の復活を信ずることができるなら、同じ原理によると言われているのであるから、世界の復活を信ずることもできるのである。また、もし、自分の新生と、現在における神との交わりの経験を通して、神の力をすでに味わっているのならば、神が個人に対してなさったことを、宇宙的な規模でもなさるにちがいないということを、信ずることができるのである。神は、「ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました」(新約聖書 第一ペテロ1章3節)

 バンヤンが、歓喜山の頂からはるかに天の都の輝く塔を望み見たとき、彼の旅路が新しい勇気に満たされたように、私たちも、霊的ビジョンを得さえすれば、この悪と戦いとの世界の中で、神の都のきらめき、復活の福音の最終的栄光をそこに見ることによって、百倍もの勇気をいただくことができるのである。

乳と蜜との流るる国
黄金のエルサレムよ
深き御計らい覚えて
ただ黙して 声をのむ
われ知らず われ知らず
そこに待つ喜びを
栄光の輝きを
また たぐいなき祝福を

慕わしき 祝福の国
神の選びたまえる家よ
熱き心もて われらは待つ
慕わしき 祝福の国
父なる神 御霊とともに
あがめられたまえる
わが主イエスよ
あわれみをもて
安きに導きたまえ

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