今朝は、「母の日」に長男から贈られてきた花を窓辺に出して写真を撮りました。その日、お礼の電話をかけた家内に対して、長男は、「明るい花々を見て、少しでも晴れ晴れとした気持ちになって欲しいから」という意味のことを言いました。その言葉はいつまでも私の心に残りました。それに対して贈られてきた花々を見ることをうっかり忘れていました。庭には様々な花々が次々と咲き揃っており、いつもそちらの方に心を奪われていたからです。でも今朝は、違いました。外気の色とりどりの爽やかな庭を向こうに追いやり、室内のその花を手に取って眺めてみました。愛の表れである幾種類もの花々がそこにありました。贈り主の愛を改めて一つ一つ実感したことです。
環境が人生に作用し、無意識のうちにも態度や思想を条件づけることは、言うまでもない。三人のむすこを持つある母親の話がある。むすこたちは三人とも、家を去り、船乗りになっていた。母親は、その寂しさを、ある訪問客に、悲しそうに訴えた。
「どうしてみんながうちを飛び出したがるのか、わたしにはわかりませんわ。できるだけの事をして、楽しませてあげましたのに。とにかく、わたしは、この年老いたわたしを慰めることも考えてほしいのですが・・・」
しかし、訪問客は、少しも驚いた様子を見せない。ちょうど暖炉の上には、まっ白い帆をいっぱいに張った船の絵が掛かっている。マストの上に飛びかける空の鳥を背景に、全速力で海をすべって行く絵である。彼はその老母に、「それはあの無言の絵が、お子さんがたの心の中に、それが物語っている生活へのあこがれを植え付けたからなのですよ」と語った。確かにそのむすこたちは、彼らの環境のこの部分が心の中にかきたてたあこがれに抵抗することができなかったのであった。
いろいろな意味において、私たちはその環境の産物である。もしそれが、卑しくさもしいものであれば、私たちはがさつで不甲斐のない者になるかもしれない。子どもを貧民くつで育てるならば、彼らは貧民くつの道徳を身につける。中には、泥沼のすいれんのように、環境を超越した人も出るであろう。しかし、大多数の人は、水のように低きを求めて、人間性を失ってしまうのである。親ならばだれでも、子どもたちが自分と同様、またはそれ以上に、近所の環境に染まってしまうということを、知っている。
ここでは罪の環境が私たちを囲んでいる。私たちはすでに内部にあがないをいただき、またキリスト者の社会は、悪しき世の中で義の小島を形成しているかもしれないが、それでも世界は、私たちにとって依然として手ごわい相手である。ジャズのすさまじい調べであるか、劣悪な小説であるか、野蛮窮まりない戦争であるか、風紀を乱す飲酒であるか、他の、私たちを取り囲む無数の何かであるかは問わず、それらは、私たちを、決定的にわなにかけてしまうことはないかもしれないが、いずれも、私たちの霊的生活を鈍らせてしまうものである。文明も、罪への運動作用を果たすことがあり、その最善の産物さえ、悪い動機や偽善性を表わすことがある。
神の都は、私たちに、新しい環境を約束している。真珠の門や黄金の通りを文字どおりに取るべきか、それとも、預言者が幻で見た目もくらむような美しさを叙述するのに最善と思った手だてとだけ取るべきかは、ここでは問題にしない。それはともかくとして、神は、復活した信者に、神が彼らに植え付けたもうた霊的生命の純潔さを具現させているような環境を与えようとしておられることは、明らかである。新しい生活のためには、こうして、腐敗していないことは言うに及ばず、腐敗することもない環境が与えられるのである。それは、使徒と預言者の活動を土台とするものであり、その社会は、小羊のいのちの書に名を書きしるされた者たちだけのものとされる。復活はこのように、神の子たちを新世界に住みうる者とする、神の準備の、最後の段階を意味するものである。それは、永久に古い罪による環境をかたずけ、清潔ですばらしい世界に私たちを生まれさせるものなのである。
都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって・・・十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。・・・すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(新約聖書 黙示録21章11〜12節、21節、27節)
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