今日は昨日の雨に比べて、爽やかな一日でした。二日続きの病院通いでしたが、今日のは心臓の動きを調べるための24時間ホルダーを提出するためでした。無事に提出し、帰る時、目にしたのが写真の絵でした。山本容子さんの「沼の花」という作品です。絵はさらに左の方に続いていますのに、一部だけで、作者には申し訳ないです。病院にこのような空間・絵があることはありがたいことだと思い、撮らせていただきました。お許しください。
夕刊には全国の介護保険料が月6225円に上昇したことが報道されていました。高齢化の進展で介護サービスの利用が増加しているのがその要因だそうです。認知症基本法元年の年、介護福祉の充実は国民的課題です。一方、私たち人間の霊的課題は何でしょうか。昨日に引き続いて「復活の最終目的」の「(1)礼拝の最終的完成」の部分を転写しました。お読みください。
私たちの霊的生活は、すべて、完全な神との交わりを目当てとする闘争である。この意味では、誘惑や悪へのけしかけに満ちた罪の環境は、私たちの神へ向かう渇仰をとどめる、一種のブレーキである。天へ向かう旅路をきびしく貫こうとする気持ちは、しばしば、禁断の野で快楽の草花を摘む手を差し出すことによって、中断されてしまう。あとになって、誘惑に引いて行かれたことを自ら悔やむかもしれないが、それにもかかわらず、私たちの敗北は明らかであり、事実それによって私たちは、神のみそば近くいることができたのに、いられなくなったのである。私たちが、みそば近くに進んで行くとき、しばしば、自分の感じを表現できないこと、また、肉体の必要が思いと祈りの継続を中絶させることに気づく。私たちは幕を通して礼拝する。だから、幕の後ろに神のかたちを識別することはできても、そのおかげで、神からの明らかな光をいただくことはできないのである。復活だけが、その幕を永久に引き払ってくれる。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3〜4)
歴史のいかなる瞬間にも、神は、人とともに住むことを求めてこられた。それは。罪によって、実現をはばまれている。神は楽園に下って来て、禁断の木の実を食べたために恥を知って神から隠れていたアダムを捜し出された。また神はシナイ山においても、雲と雷鳴のうちに下って来られた。しかし、そのときにも人々は、恐怖にかられ、「神が私たちにお話にならないように、私たちが死ぬといけませんから」(出エジプト20:19)と叫んだ。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)のであるが、そこもやはり、彼が永遠にまくらしうる所ではなかったのである。聖誕の時には客間に彼のための余地がなく、説教の時は会堂に部屋がなく、教えをするときにも、宮は両替人でいっぱいで、彼のための余地もないありさまであった。ついに彼は、バラバの十字架にかかり、ヨセフの墓に葬られた。人間の罪の苦い皮肉は、それが、人間が必要とし、神が求めておられる交わりの道をふさいでいるということである。
復活は、その事態を終わらせ、罪なき新しい世界を創始し、神が人と永遠の交わりを持ちうるようにするのである。そのとき可能になる礼拝においては、仲介者も儀式も象徴も、何一つ必要ではない。それは、神との直接の結びつきをもたらすのである。
交わりが深められることを除けば、礼拝においてこれ以上の事を望むことはできない。復活は、最終的礼拝を可能にしてくれるものなのである。
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