今日は聖霊降臨日でした。イエス様が復活されたことを記念したのは3月31日(日)のことでした。そして、今日5月19日(日)は、そのイースターの日から数えてちょうど50日目になります。聖書の示すところにしたがえば、イエス様は復活して「四十日間」人々に姿を現わされ、そののち昇天されたとあります。その上、昇天の前には、「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と言われました。昇天されてから、10日間、人々はじっとこの約束を待ちました。そして、この日曜日についに聖霊が約束どおり降ったのです。今日の礼拝は、そのことを味わわせていただく礼拝でした。
礼拝を終えて、外に出たところ、一羽のカラスが案内板を伝い歩きをしているのがなぜか目に留まりました。案内板の文字とちがい、そこに命のあるものが(現実には烏なんですが)私に手招きしているように思え、烏のあとに一緒について行きたいな、と一瞬思わされました。
それにしても一般にカラスは印象がよくないようですね。しかし聖書には12個所の引用がありました。中には「その頭は純金です。髪の毛はなつめやしの枝で、烏(カラス)のように黒く」(雅歌5:11)とイエス様の姿の美しさをたとえるのに用いられたりしていました。もちろん、「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、烏よりも、はるかにすぐれたものです」(ルカ12:24)という有名なイエス様のお話があります。
イースターの日から、この五十日間はほぼ、「復活」に集中してメリル・C・テニーの『キリストの復活』を転写してきました。実際は34日、それに割くに留まりました。転写しながら、復活されて四十日間という期間はいかにも長い間なのだということを身をもって実感し、この揺るぎない証拠のうちに宣教は続けられてきたことを思いました。その転載も、今日で終わりです。最後に全内容を振り返るため、章立ての題名を掲げておきます。
第1章 復活の事実
第2章 復活の予測
第3章 復活の信仰
第4章 復活の自由
第5章 復活の効力
第6章 復活の熱情
第7章 復活の不屈の精神
第8章 復活の最終目的
長い間お付き合いくださりありがとうございました。
もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。(新約聖書 1コリント15章19〜20節)
以下は「復活の予測(下)」です。
復活の思想が強く含意されているのは、イザヤ書のしもべの預言である。これらの預言をメシヤ預言とすることは、それらを直接キリストに当てはめる新約聖書で、豊富に確認されている。主イエスは、ナザレの会堂で最初の公開説教をしたとき、イザヤ書61章を引用され(ルカ4:16〜19)、ピリポは宦官に、イザヤ書53章を説明して、「イエスのことを宣べ伝えた」(使徒8:26〜35)のである。イザヤ書53章の、しもべの死の叙述の中には、次のような言葉がある。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
彼は富む者とともに葬られた。
彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて、痛めることは
主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを
罪過のためのいけにえとするなら、
彼は末長く、子孫を見ることができ、
主のみこころは彼によって成し遂げられる。
この聖句によると、彼の墓はしつらえられてあり、彼は死に、葬られる。しかも、彼は「末長く、子孫を見ることができ」るのである。この逆説は、どうすればほぐされうるであろうか。答えは、復活だけに見いだされるであろう。それは、預言の成就である。墓は、悪者どもとともに設けられた。と言うのは、アリマタヤのヨセフが埋葬のために自分の墓を提供したので、「富む者とともに葬られた」と言いうるのであるが、そうでなかったら、イエスのからだは、疑いもなく、陶器師の畑に捨てられたと思われるからである。復活において、彼は再び生命に復帰した。そして彼は、子孫を見、彼の命を長くすることもおできになった。しかも、主のよろこびたもうことが、彼の手によって盛んにされたのである。
ヨナの例は、主イエスご自身によって、ご自分の復活の表象として引用されている。この預言者が、三日三晩大魚の腹の中にとどまっていたように、主ご自身も、死にのまれるが、ついには再起すると言われるのである。イエスはこの聖句を、直接的預言としてよりも、一つのしるし、または例証として引用しておられる。しかし、それにもかかわらず、これは、イエスが死のあごから解放されることを、鮮明に描いて見せてくれるものである。
最後の預言は、ある点では、すべてのうちで最も劇的なものである。ゼカリヤ書12章10節で、預言者は、未来の主の日についてしるしているのであるが、そこで彼は、エホバの言葉を次のように表現している。
わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
この聖句は、ヨハネによる福音書19章37節に、直接、イエスの十字架と死とを預言している言葉として引用されている。しかし、エホバなる神は、これを、最後の勝利の日におけるご自身に適用されるものであるとしておられる。そのうえで、イスラエルは、栄光の中に現われたもうかたを刺した者として悲しむ、と主張されているのである。カルバリの十字架において死に、ヨセフの庭園に埋葬されたかたが、再び栄光の中に現われたもうということは、両者の間に復活が介在するのでなければ、どうして可能とされるであろうか。この結論は、推論の域を出るものではないが、現存する聖書の光に照らして考えるとき、その復活は妥当とみなされうると思われる。
このようにして、律法と詩篇と預言書とに見られる預言の声は、十数世紀にわたり、あらゆる異なった環境の中で語られたものであるにもかかわらず、次の点ーーよみがえりのあがない主が、人類にのしかかっている死ののろいを退けられる、このよみがえりの初穂が、神の子たちのより偉大な収穫の前兆であられる、このよみがえりの聖者が、永遠のいのちに対する私たちの切望をかなえて下さる、このよみがえりのしもべが、私たちの罪責の全きあがないを成し遂げ、神の目的を成就される、そして、よみがえりの主なるエホバが、仰天し悔悟したイスラエルにご自身を啓示される、という点ーーでは、一致したあかしをするのである。
きたれ なんじら忠信なる者
奏でよ そのよき調べ
勝利の喜びの歌を。
悲しみより喜びに入らしめ
神 イスラエルを導きたまえり
パロのくびきより
ヤコブの子らを解き放ち
その足を ぬらさずして
紅海を 行かしめたまえり
キリスト その獄(ひとや)を破りて
死の眠り三日にして
日のごとく立ちたまいぬ。
こは きょう迎えし心の春
長く暗きわが冬の日は
すべて 御光の前を過ぎ去り
われら たたえの歌を
とこしえにささげん。
(ダマスコのヨハネ)
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