夕日落ち 家路何処や 鴨夫婦 |
しかし、かわいそうに一日経った夕方には死んでおり、風に吹き飛ばされたのでしょうか、ベランダの反対側まで飛ばされてそこに身を横たえていました。
昨日でしたか、袴田巌さんの再審の様子が報ぜられていました。過去に何冊か関係する本を読ませていただきましたが、その中で『主よ、いつまでですか』という袴田さんの獄中書簡が本になっていますが、その中の一文を写してみます。
死刑囚にとって今日の一日はあっても無くてもよい一日であったのだろうか。どうしても無くてはならぬ素晴らしい一日であったろうか。もしくは無かった方がよかった一日であったのか、そしてまた、彼らは考えるであろう。今日のような毎日の積み重ねは何の意味も無いと、自分の毎日の生活を大別すると、甚だないほうがよかったと思う日が多いのが獄中者に唯一共通するものである。しかしこのように少しでも生を意識すると、自分の生活を大切にしようと思うようになる。すると、おのづと一日と言えどもいい加減に生きてはならぬことを知る。前記の通り私たち人間はすべて死ぬ、必ず死ぬ。事故か、病気か、老衰か、とにかく必ず死ぬのだ。今日より明日は死に近い。私は漠然と日を送ってはならないのだ。この私に本当の生き方を教えてくれるのが聖書なのである。「常に善を追い求めよ」(※)然り、私は身に覚えのない罪により、本件で有罪死刑という汚名を着せられた。(1981年7月19日)
※この聖書の言葉は新約聖書 第一テサロニケ5章15節の言葉であります。ちなみに以下に全文を示しておきます。「だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。」どのような思いで獄中を袴田さんが過ごされたか、察するに余りがあります。
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