2024年5月18日土曜日

復活の予測(中)

水田に カルガモ夫婦 見つけたり

昨夕は泥田に首を突っ込んで、脇目も振らず、一心に獲物を探索している二匹の鴨を、古利根川の下の水田で見かけました。一口に「かも」と言っても、渡り鳥の雁もいれば、留鳥であるカルガモもいるんですね。鴨群の生態、識別も知らず、一喜一憂しすぎておりました。

さて、今日5月18日は私どもにとっては忘れられない日です。11年前、次男の妻が日本への帰国の際、武蔵小金井駅で倒れ、人事不省のまま多摩総合医療センターに救急入院し一命を取り留めることができた日です。研究者として将来を嘱望されていた彼女にとり、今もその病との戦いは続いていますが、幸い主イエス様にあって守られているようです。

カルガモ夫婦の進む泥田を見ながら、私は11年前に襲った次男夫婦の悲哀、またその折り信州の平原付近の車窓から撮った水田を思い出しました。https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2013/05/blog-post_25.html 「復活」の日を待ち望んで、今も孤独な研究を続けている彼女のために、祈っていてくださる僚友に感謝します。

さて、本日の本命である『キリストの復活』の「復活の予測」は昨日に引き続いてお送りする(中)篇です。最初の数行の出だしこそ意味がよくわからない文章ですが、それ以外はよく意味が通る文章で、旧約聖書において、「復活」がどのように預言されているかを、新約聖書と関連付けして丁寧に教えてくれます。

 このような先験的な推理は、必ずしも常に正しいとは言えない。経験は、理論的には正しくなければならない多くの事が、実際においては正しくない、ということを教えているからである。他方で私たちは、イエスがその生前に、復活の必要を説いておられたことを知っている。サドカイ人が、律法の推論的解釈を根拠に、復活の教えに反対したとき、イエスは、「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」と言われた(新約聖書 マタイ22:29)。今、彼が聖書に基づいて復活を教えておられたとすれば、その教えは、みことばの中に含まれていなければならない。したがって、私たちは、その預言を、新約聖書のそれに対応する教えに照らして捜し出すとしても、不当な事をしているとは言えないのである。

 それでは、この個所とは、どのようなものであろうか。

 記録によると、最初のメシヤ預言は、創世記3章15節の原始福音である。

わたしは、おまえと女との間に
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。

 ここに描写されている人物は、一庭師である。彼は有毒のヘビを行く手に見て、その頭を砕いた。しかし、そのかかとに、毒牙を受けてしまったのである。この本文には、いくらか復活に関連性のある内容が含まれている。

 第一に、この約束は、罪を犯して死に定められた者にとって利益となることに言及している。アダムは、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」と言われていた。しかし、ヘビの頭が砕かれたのなら、救いは約束されたのである。そして、救いの手が伸ばされるためには、あがない主は、死を克服することのできるかたでなければならない。

 第二に、その人物は、へびの毒牙にかかった。しかも生き延びて、それを押さえてしまったのである。キリストは、へびの一撃を受けてどのようにして、なお生き続けることがおできになったのであろうか。復活は、その回答である。

 創世記22章に見られる、モリヤの山でのイサクとアブラハムの例話も、世継ぎの子(すえ)の死とそれに次ぐ生還を描いたものである。もちろんイサクは、実際には死んでいない。死ぬ者と見なされたにすぎない。それにもかかわらず、彼がメシヤ、すなわち選びのすえを代表する者であって、ヘブル人への手紙の記者によれば、神が彼を「死者の中からよみがえらせる・・・イサクを取り戻した」(ヘブル11:19)と言われているのは、注目に値することである。この個所は、このように、非常に明白な平行関係があるにもかかわらず、新約聖書の記者のだれによっても、特にキリストに適用されるべきものとされてはいない。

 メシヤ預言の流れの中で、次に、明白な言明にぶつかるのは、モーセの五書の終わりのほうに記録されている、ユダヤの儀式の象徴においてである。レビ記23章には、「主の定めの祭(例祭)」として、三つの祭がしるされている。第一の過越の祭は、身代わりの犠牲と罪からの分離とについて語っている。第三の揺祭(ようさい)、パンをささげる祭は、五旬節すなわちペンテコステの祭である。この二つの間に、初穂の祭がある。この祭は、過越の祭から数えて三日目にとり行われる。それは五旬節から数えると、五十日前になる。この穀物の収穫の初穂は、種を埋めたあとで、生命が帰って来たことを示す最初のしるしとしてささげられたもので、祭りにおいては、犠牲の燔祭もささげられた(レビ23:9〜14)。

 この記録を、復活と比較していただきたい。復活は、過越の犠牲が死に渡されてから三日目のできごとである。また、五十日後には五旬節が待っていた。それこそ、死の中から出て来る新生命の先ぶれ、また象徴であった。主イエスは、この光景をご自分に当てはめて言われた。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)。パウロも、「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました」と宣言したとき、同じたとえを用いていた(第一コリント15:20)。おそらくこの象徴は、彼が、旧約聖書のこの個所に対するイエスの解釈を知っていて、使用したものであろう。自然界の収穫が、土壌の水気や特性をもってしてはついには押さえきれない不屈の生命力を物語っているように、キリストの復活は、あらゆる墓の拘束力を打破しうる、神の生命の力を実証したものなのである。メシヤは、そのメシヤ性を証拠だてるために、そのような力を示威することを必要とされたのである。

 神政政治の時代が過ぎて、王国の創設を見るようになると、預言は、イスラエルの生活において、いっそう重要性を増してきた。そして、その先見者たちのうちで、最初の人々のひとりと目された預言者は、ダビデ王であった。詩篇16篇は、このダビデの霊的な渇仰を記録したものである。彼は「ゆずりの地」と「好む所」を慕うが、それにもまして、来世に生き続けることを願っている。そしてその言葉は、彼が大胆に次のように主張するとき、その渇仰を素通りして、先に進むのである。

まことに、あなたは、私のたましいを
よみに捨ておかず、
あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
あなたは私に、いのちの道を
知らせてくださいます。
あなたの御前には喜びが満ち、
あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
              (詩篇16篇10〜11節)

 ユダヤ人は「よみ(隠府)」を、第一義的に刑罰の場所と言うよりは、善悪を問わず、単なる死者の霊のいこう場所と考えていた。たとえば、ヤコブは、自分のことを、「よみ」に行く者と考えている(創世記37:35)ユダヤ人が、「よみ」とはすべての魂が等しく行くべく定められた所と考えていたことからすると、この預言は、驚くべき響きをかなでているものとなる。それは、死からの救いと、死後の高揚とを歌っているからである。魂を、暗い陰の国にとどめておかなくてもよいばかりか、肉体を墓の腐敗のままにする必要もないのである。

 しかしながら、新約聖書は、この詩篇16篇の言葉を、キリストの復活だけに限定している。ペテロもパウロもともに(使徒2:25〜31、13:35)、この個所を、ダビデがメシヤの復活を預言したものと解釈している。この預言は、新約聖書の記者たちがひるまずに宣言しているように主イエスによって成就を見たのである。

 ダビデ王国より後の時代に書かれた他の詩篇も、同じ希望を反映させている。詩篇49篇15節は「神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ」と宣言しており、また、アサフの詩と言われる詩篇73篇24節は、「あなたは、私をさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださいましょう」と言っている。これらの聖句は、詩篇16篇の言葉のような適確性を欠いてはいるが、詩篇における復活概念を強化する上では、十分な力を持つものである。

 預言者の著作の中にも、この題目に言及しているものが幾つかある。ホセア書6章1、2節は、イスラエルの国が次のように言うと述べている。

さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また、包んでくださるからだ。
主は三日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。

 この句をあまり強調することは、許されないであろう。第一に、それは第一義的には、個人にではなく、イスラエルの国に適用されているからである。第二に、その適用は、死からの復活と言うよりは、罪からの回復に限られている。第三に、それは新約聖書の中で、復活の預言としては直接引用されていない。他方、ホセア書11章1節は、明らかに国家に適用されているにもかかわらず、マタイによる福音書2章15節では、メシヤに関する預言とみなされている。しかも「三日目」という言葉は、旧約聖書では、復活をまっすぐにさし示すものとしては、前掲のホセア書6章2節だけに用いられている。もし、ホセア書11章1節が、間接的にキリストの預言として与えられているのなら、この個所もそうと考えられるであろう。

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