2016年4月14日木曜日

主とお会いする約束をせよ

シオンの娘たち。ソロモン王を見に出かけなさい。(雅歌3:11)

  おそらく私たちは「出かけて見よ」という命令よりも、「あなたの目は、麗しい王を見る」(イザヤ33:17)という約束を握って過ごしてきたことであろう。私たちは、「イエスにお目にかかりたいのですが。」(ヨハネ12:21)と言うだけでは満足しないはずだ。

  もし、私たちの目がぼやけすぎているなら、「私の目を開いてください」(詩篇119:18)と祈ろう。もし、私たちの心に覆いがかかっているなら、主の方に、御霊の方に向きを変えよう。そうすれば、覆いは取り除かれる。もし、私たちが主にお会いするのにあまりにも遠く離れて立っているなら、叫び声をあげ「私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。」(雅歌1:4)と決心しよう。もし、私たちが家の中にまだ座っているのなら、急いで立ち上がってイエスに会いに行こう。これは不可能なまた架空の命令ではない。イエスを遠く見ている目が、今や主を間近に見るのだ。

  でも、私たちは何を見るのだろうか。見えるものは、美と栄光と戴冠のすべてだ。悲しみと損なわれた容貌は過去のもの。私たちが主を神の小羊として見るときでさえ、今では王座の真ん中におられる小羊だ。信仰によって私たちの王、イエスを見つめているシオンの娘よ、あなたは何を見ているのか。

  おお、何たる数々の答えである美しい調べよ。「イエスのことは見ています。栄光と誉れの冠をお受けになりました。」(ヘブル2:9)「あなたは人の子らにまさって麗しい。」(詩篇45:2)「麗しく、栄光に輝き」(イザヤ4:2)「それは、なんと麗しいことよ」(ゼカリヤ9:17)「その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい」(雅歌5:15)「顔は強く照り輝く太陽のようであった」(黙示1:16)「あの方のすべてがいとしい」(雅歌5:16)

あなたの目は見ている。すばやい一瞥を投げるのでなく
記憶を輝かす一つの光線をも拾い集める
しかも、喜びが永遠に続く間だ
あなたの目は見ている。
あなたの目は王を見ている。
まさしく同じもの
王の愛は呪われた木の上に輝いている
王はあなたの罪に耐え、あなたの名前を呼ばれる。
あなたの目は見ている。

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