2016年4月29日金曜日

神との完全な平和をいただいた心

わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。(イザヤ58・1)

 主は私たちに単に告げられるのではない。それよりももっと多くのことがある。それは隠されたものの覆いを引き離す見えざる手であるだけでなく、また私たちが望むなら見ることができるようにそれらを指し示すようにもたらされる光であるだけでない。それよりもさらに個人的でさらに恐るべきものだ。だが、さらに情け深いものだ。

 彼は私たちがしたことを語られる。もし私たちが耳を傾けるなら、その語られることは極めて明快で、また徹底的で、誤りのないものである。ところが、初めは私たちは全然聞こうとしたがらない。非常に歓迎されないことを私たちに語る静かな小さな声にしりごみするのだ。ある人が「私がそれについて考えるときはいつでも、私はたいへん恐ろしく悪く感ずるので、もうそれ以上考えたくない」と述べたように感ずる人が多い。

 ああ、「おまえも、もし、この日のうちに、知っていたのなら」(ルカ19・42)それは単にそのことについて考えることだけでなく、あなたに「平和の」ための道を明確にしたいと話し始める救い主の声だ。どんな祝福も忍耐と聞く意欲があってはじめてもたらされるものだ。

 おお、その声に耳をふさぐな。あなたに気分を滅入らせようと励む不愉快な考えにすぎないと想像するな。そうではなく、主に主の声がもっと大きく、もっとはっきり鳴り響くように求めよ、そして「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ローマ2・4)ことを信じよ。

平和、平和
汝に対する主のみことば

平和

汝の情熱
休むことなき誇り
汝の終ることなき切望
与えられることなきこれらすべて 
汝の弱さと罪ですり切れにされし
心のための平和

安息を約束せし方は
その必要を知っておられる
その贈り物は無代価

0 件のコメント:

コメントを投稿