2016年4月8日金曜日

従順によるか、強制によるか

陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。(エレミヤ18・4)

    まさに陶器師である主に気に入ったようにしていただきましょう。主はそうおっしゃっているのです。ところが、あなたは実際には主に「おまかせ」しないで主の判断を妨害したり、助けを妨害してきた恐れがあるのではないでしょうか。「けれども、そう言ったってどんな違いがあり得るんでしょうか。主は私が好もうと好まなかろうともちろん主がお望みになることを行われるのだから」こんなふうに言ってはいけません。その言い方は正確じゃないからです。

    もしも患者が外科医が最善と考えていることに完全にまかせるなら、そのこととこのみことばの例とは違いはないのではありませんか。力づくの処置や不本意に服従させられてなされる治療は、指示されることや助言されることに反抗することをとおして、気をもませたり、また興奮によって反対に作用するかもしれません。

    主の治療は、私たちが反抗する時、公正な働きはなされません。全能の主といえどもあらわれる信仰を待ち望んでおられます。もし、陶器師の手でこわされた「粘土でつくられた器」が、陶器師の技量ある手に逆らったら、どのようにして陶器師が気に入るようにつくろうとしている別の陶器のようにもう一度つくりあげることができたでしょうか。

    従順な粘土は陶器師の再生されるにまかせ、もっといい永久的な形に成形されます。けれども私たちは「まかせない」で、ただそれだけで妨害するのです。しかし、あなたはほんとうにそうするのですか。「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64・8)とあるからです。

    私たちの陶器師であるお方の不思議な成型品であろうと、父なる神様の不思議なみわざによるものであろうとも(このことは、抽象的なことでも、また可能性のある、未来のことでなく、現実的なこと、現在のこと、また差し迫ったことして私は述べているつもりなのですが)万物にふさわしい一つの優しいこの声を紹介しましょう。「そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11・26)

ーっ、静かに!父なる神様がご自分の意志で
愛されるすべての神の子どもに分配されるのです。
もう、それらはないですか。
主のご意志は最も賢明ではないでしょうか。
主のご選択は最善ではないでしょうか。
だから、完全な黙諾のうちに、完全な平安があるのです。

(今日の箇所はhttp://bibletruthpublishers.com/april-8-by-submission-or-by-force/frances-ridley-havergal/opened-treasures/f-r-havergal/la97263です。)

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