2016年4月16日土曜日

主に鍵を渡しなさい

だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって(黙示3:20)

  すべてはイエスが、ご自身の家、そう、まことにご自身の持ち物である、そのような家として、入られるかどうかにかかっている。もし、私たちが鍵を渡さない部屋がいくらかでもあるなら、例えば、少し心のゆとりを持ちたいので、窓から眺めてもらって、鍵を絶対に渡したくない小さな居間とか、また今はまだ追い出したくない下宿人がいるとか、さらに開けて整頓する決心がつかない暗い衣装棚があるとかいうなら、もちろん王であるイエスは完全に所有しておられないことになる。

  それは全部というわけではではないだろうが、実際は全ては主イエスのものである。そして、まさしくその不安が主イエスがもう一度平和裡に来られなかったことを証明している。主イエスが贖いによってご自分のものとされたのに、私たちの側で何らかの保留があることが隠された争論となっている限り、完全な平和を期待するのは無駄である。

  ただ全部の戸を開けよ。そうすれば、栄光の王であるイエスは入って来られ、もはや他のお客を切望しなくなるであろう。主イエスはこの家を栄光で満たされ、暗闇に放置されている所はなくなるだろう。

私たちに明らかになったことは
まさしく鍵そのものであることは疑い得ない
それはイエスが空虚という空虚をことごとく満たし
ありとあらゆる必要に答えられ
主イエスの前で私たちの心の秘密が露わにされるからだ。
だから人生のあらゆる不可解なことは全部、
ただ主とともに明らかにされる。

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