2013年2月1日金曜日

私は何を見て生きてきたのでしょうか?

柚子の実、一月前に来れば良かった 昨日栃木市内の友人宅で
それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった(新約聖書 黙示録1・17前半)

振り返って、一目この栄光の主を見るだけで、このような結果になります。この栄光は並外れたものです。だれの目がその光景に耐えることができるでしょうか? ヨハネはかつてイエスの胸に寄りかかりました。しかし、この栄光、威厳、力、聖のゆえに、彼は主の足もとに倒れて死人のようになりました。キリストが来られて、教会とこの世を裁かれる時、だれがこのような光景に耐えることができるでしょうか? もしヨハネがそうであったなら、他の人々はどうなるでしょうか? 不忠実な信者たちはどうなるでしょうか? 主の敵はどうなるでしょうか? どうかすべての聖徒たちと罪人たちが、この来るべき裁きの厳粛さを認識しますように!

もし私たちが真に主の栄光、主の聖、さらには主ご自身をも見たのでしたら、私たちは昔の聖徒たちのようになるでしょう(※)。私たちは、みずからを深く恨み、自分自身を最も憎悪すべき、最大の敵であると見なすでしょう。あらわにされている高ぶりであれ、隠されている高ぶりであれ、両方とも私たちがキリストを見ていないことによって起こります。いずれにせよ、私たちは自分自身を知らないのです。

自省は益になるかもしれませんが、それは完全な導きにはなりません。心はよろずのものよりも偽るものであって、だれがこれを知り得るでしょうか? もし主がなければ、私たちは自分自身さえも知らないのです。もし私たちが主の光の下にいなければ、どうして私たちは自分自身の光で見ることができるでしょうか? 私たちが主の前にやってきて、自分自身を吟味する時こそ、私たちは真の自己を見ることができます。

自分は何かを持っていると考えたり、自分自身を他の者よりも強いと見なす者たちは、自分自身を知らないからです。主は私たちの生活におけるあらゆることを案配し、導いて、私たち自身の完全な失敗を私たちに見させます。私たちがこの学課を学ぶことは、何と難しいことでしょう! 

私たちは失敗する時は、少しへりくだるかもしれませんが、私たちが神の恵みで満たされ、働きにおいて成功する時は、私たちが自分は役に立たないことを認めることはとても困難です。もし私たちが常に主イエスを見て、絶えず彼の足もとに倒れて死人のようになるなら、それは何と驚くべきことでしょう! どうか主の栄光と聖が、私たちに自分自身を憎ませ、そして私たちが地にひれ伏し、自分自身を死にゆだねますように。その時のみ、主はご自身を私たちの生活において現わされます。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻98〜100頁引用。※この文章の前にイザヤ、ヨブ、ダニエル、ハバククの経験がそれぞれ述べられており極めて有益であるが編集上省略せざるを得なかった。文意は充分汲んでいただけると思う。それにしても弱冠24、5歳にしてこのような思いで生きていた人と、そうとは知らず、高慢なまま人生を終わろうとするこの者とではいかなる違いがあることだろうか。しかし、今からでも遅くないと主は言ってくださるから、有難い!)

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