2013年2月27日水曜日

うたがいから信仰へ(2)

スイス・レマン湖 by Nobuo.Y
私が10代後半に友人からキリスト信仰を紹介されたにもかかわらず、即座に否定したのは、科学という絶対的な真理を盾にしたものでした。もし神が存在すると主張するなら、神の存在が誰にでもわかるように証明できるはずだ。それができない限り信じられないというものでした。しかし、今にして思えば、その立論の奥にはどうしても崩されたくない自我があったことに思い当たるのです。したがって、昨日の最後のみことば「彼らは理由なしにわたし(イエス)を憎んだ」は私にとっては大切なみことばです。なぜなら、私は意識していなかったのですが、まるで自らを理性の王者であるかのように客観的であると自負していたのですが、真相は心の中には様々な問題を抱えていながらイエスを憎んだとしか言えないからです。

O.ハレスビーはそういう私のように懐疑するために懐疑している者でなく、確信が持てず何とかキリスト信仰にたどり着きたい人のために、まず新約聖書を読むことを勧めています。そして次のように言っています。(実は私自身も後に、いつの間にか、今度は婚約者からキリスト信仰を勧められ、聖書を不承不承ひもとかなければならなくなっていたのですが)

「あなたは、聖書の超自然的な起源に疑問をもたれ、同様に、新約聖書の中の奇跡の記事の大部分、おそらくその全部に疑問をもたれると、私はまず考えるのです。それにもかかわらず、新約聖書をお読みなさるようお願いします。(しばらくの間あなたの知性にあまりにいやな気を起こさせるものを読むことを省きなさい。残るところを読みなさい。それは、あなたをうたがいから引き出し、キリストについて、またキリストについての聖書のあかし全体についての個人的な確信に入る助けを与えるのに十分なのです。)

イエスは、ご自分に関する大小幾多の教理を受け入れたり、前もって承認したりするようには聴衆に要求せられなかったのです。イエスは、むしろ、彼のもとに来て、その声をきき、彼に従うように人々にすすめをなさったのです。

どういうことが起こったでしょうか。正直にそのことをした者は、みな、イエスを体験して、彼がご自身について語られた事柄の真理であることを、すぐ自分で確信するに至ったのです。その人たちが、体験した事柄、また自分で確信するに至った事柄を後に至って言い表わしたとき、その結果が新約聖書でありました。」(『私はなぜキリスト者であるか』15〜16頁、かっこ内は18頁)

ここで何よりも勧められているのは、ひとりひとりがイエス(の仰せ)のところに出てイエスを体験することが求められているということであります。これが2000年来、変わることのない、聖書が真理であることを納得する道なのです。なぜなら聖書の真理は「体験」をとおして明らかにされる性質を持っているからです。イエスは次のように言われました。

だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。(新約聖書 ヨハネ7・17)

このみことばは何と適切なみことばでしょうか。絶対的な真理と確信したいのなら、あなたは神のみこころを行ないなさい、とイエス様が勧められているからです。すなわち傍観者、認識者でなく、行為者としての人間という人格を持つ者にしか問われない責任が明らかにされているのです。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。(マタイ7・12)

これは私たちひとりひとりに対するイエス様の勧めのことばです。 これは今からでも実行できる勧めです。

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