2013年2月8日金曜日

アンテパスは、今日どこにいるでしょうか(上)

造型の妙
教会はこの世の中に住んでいます! これは何と奇妙なことでしょう! 敵対するこの世は、もはや教会を追い出せませんし、教会に、この世と異なるものを感じさせません。今や教会は、この世の底にまで堕落したのです。もはや教会は、くずではなく(1コリント4・13)、まして疫病のようなものでもありません(使徒24・5)! 今や、一つの地位を獲得し、人の誉れとなっています。教会は、サタンが王として支配するこの世に住んでいるのです。「住む」とは家を造ることです。教会はもはやこの世では客ではなく、この世にあって重要なメンバーとなっています。教会はこの世に家を造ったのです! 何とこれは主と異なることでしょう!

主は地上における最初の夜を、宿屋の飼葉おけで過ごされました。また地上での最後の夜を過ごされたのも、宿屋でした。(ルカ22・12の「広間」という言葉は、原文ではルカ2・7の「客間」と同じ言葉です)。主イエスは、地上で初めから終わりまで旅人でした。彼が死なれた後でさえ、彼は他人の墓に葬られました。彼は本当に客でした。彼が教会に求めておられるのは、地上で客になること以外の何ものでもありません。ですから彼は、救われた者を宿屋に置かれます(ルカ10・34)。

主は再臨の時に、救われた者がみな宿屋にいることを願われます。しかしながら、哀れなことに、教会は寄留者、旅人の性質を失ってしまいました! この世の中に「いる」ことと、この世の中に「住む」こととの間には、違いがあります。この世の中にいることは、旅人であることにすぎません。ところが、この世の中に住むことは、この世の市民であることです 。これは一つの道徳的な問題です。彼らはこの世と結合したので、異端を受け入れる可能性があります。肉体がこの世の中に住んでいても、危険はありません。しかし、心と霊がこの世に家を造ることは、哀れなことです。

救い主は、環境が困難であることを認められました。彼は教会が危険な所にあることを知っておられました。罪と偶像が至る所にありました。主は、教会に苦境が臨んでいるのを認識しておられました。ですから彼は、「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある」と言われたのです。主イエスは殉教者に誉れを与えられます。ですから主イエスは、「わたしの忠実な証人アンテパス」(黙示録2・13)と言われました。アンテパスの名は、聖書にも歴史にも見あたりません。しかし、これは主のために真に苦難を受ける人の名です。人は彼を知らなくても、主は特別に彼の名を述べられました。主は彼の忠実さを述べられました。これは何という賞賛でしょう! 聖徒たちの死は、主の目にいかに尊いことでしょう!

主はご自身に属する者をご存じです。主は、だれが主のために患難と苦難を経たかを知っておられます。人はアンテパスを知らなくても、良き羊飼いは彼の羊の名を知っておられます。これは何という慰めの思想でしょう! いかに孤独でも、人の目に知られなくても、迫害が死にまで至るものであっても、この世に何一つ残さなくても、歴史家が名前を記録しなくても、主の目は見ておられ、主の心は覚えておられました。

主は彼を褒め、彼を賞賛されました。これはまことに「閉じられた庭・・・封じられた泉」のようです(雅歌4・12)。この世は彼に触れることはできませんでした。なぜなら、彼は主の目のひとみであったからです。彼がこの世に何かを与えることは、容易ではありませんでした。彼はただ主を知っており、ただ主を喜ばせることだけを求めていました。彼は孤独な殉教者であり、主が賞賛される者です。

主に感謝し、賛美します。主は決して、名のない、隠れたしもべでも忘れはしません。主のために苦しむ者はだれであれ、主によって知られているのです。主は彼らすべてを、心の中に覚えておられます。主よ、私に対するあなたの思いは、何と多いことでしょう! 来たるべき王国で、主のために苦しむ者はみな栄光を受けるでしょう。今私たちが失ういのちは、将来得ることができるでしょう。これは、アンテパスだけでなく、いのちであれ死であれ主のための殉教者である、名もない英雄たちもみなあずかるのです。彼らはみな太陽のように輝くでしょう。

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第4巻278〜280頁より引用。)

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