2013年2月11日月曜日

どうすることもできない人の性

ジョージ・ミュラーは1805年の9月27日にプロシアのクロッペンシュタットで生まれた。父は収税吏であったが、子どもたちを世に役立つ者として教育した。ところがジョージも弟たちも落ちこぼれでたくさんの罪の生活にはまっていた。ジョージは10歳になるまでにすでに繰り返し、父に託されていた公金を盗んでしまっていたのである。父はその穴埋めを無理矢理させられるはめになったくらいである。

ジョージが11歳になったとき、父は彼をハルバーシュタットへ送り、彼が大学で学べるように取り計らった。父はジョージが教会の聖職者になるのを望んでいた。それは彼が神に仕えるというよりはむしろ暮らし向きのいい生活が送れるようにということだった。ジョージが好んだことと言えば、小説を読んだり、不道徳な生活を淫することだった。

母は彼がまだ14歳の時に突然亡くなった。母が亡くなった夜、朝の二時までトランプ遊びをしていてそれから次の日は酒場に行った。彼のアルコール癖は母との結びつき以上のものがあったのだ。

堅信礼を受ける前の三日間、彼は、後に彼自身が認めているように「とんでもない不道徳な罪」を犯した。堅信礼の前の日には、自分の罪を告白するどころか、聖職者に嘘を言った。堅信をなし得るやいなや、自らが変わる決意を反古にしたのである。

ジョージは16歳になったとき、高級ホテルの宿泊代を踏み倒して逃げようとしたため、4週間拘置された。父親は助けるためにやって来たが、家に連れ帰るまで何度も打擲(ちょうちゃく)するしかなかった。

ジョージは父を説得し、もう一回チャンスを与えてもらうことにした。ノルドハウゼンの学校の入学の許可をもらい、同校の校長の家に住まわせてもらった。ジョージは校長に自分が模範的な学生だと思わせることにまんまと成功した。しかし、内側は以前にも増してひどかったのだ。彼が自らの力で改良しようとする努力は決して長続きせず、効果のないものだった。

20歳のとき、神学を学ぶためにハレ大学に入学した。そしてルーテル派の教会で説教する資格を得たのだが、彼は以前よりも不幸で、神さまからはるかに離れていた。彼の神学校での生活はまさに使徒パウロが「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています」(ローマ7・19)という言葉に尽きるものだった。

(『Release the Power of Prayer』9〜10頁より訳出。私は、いつの間にかこの二月で70歳を超えてしまった。けれども私には自らの誕生日をそのまま素直に祝えない自分がいる。なぜだろうか、と振り返って見て、それは18歳からの挫折の経験が影響していることに思い至った。実はこのミュラーの小伝記を一部紹介する気になったのはその辺のことが頭にある。彼の20歳までの人生は普通の人が想像もできない悪さの生活があった。〈くわしくは、A.T.ピアソンの「信仰に生き抜いた人』いのちのことば社刊に紹介されている〉その彼はその忌まわしい過去と完全に決別した生活を私たちに提示して、それを知る者に喜びを与える。それがキリストにある新生の生活そのものではないか。だとすれば、私自身本当にキリストにある一歩を歩んできたのかという悔い改めの情さえ覚えるのだ。しばらくミュラーの歩みに並走したい。)

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