彦根城・馬屋の梅 2010.2.24 |
今読んでくださった箇所を通してわかることは、イエス様はどうして来られたのか、犠牲になったのか、空しいものになったかと言いますと、私たちは富む者となるためです。富む者となるために、言うまでもなく、へりくだることです。自分の空しさですか、自分のみじめさを知ることです。聖書全体の言わんとしていることは次の箇所でしょう。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」有名なイザヤ書57章15節のことばです。
へりくだるということは、たとえて言うならば、イエス様の前にあわれな乞食のような者です。心砕かれた人です。そしてイエス様の光によって自分の空しさ、自分のみじめさを知っている人なのではないでしょうか。自分には主の御心にかなったものが一つもないことを知ることなのではないでしょうか。もっとも大切な祈りの一つは、ルカ伝18章に出て来るのですが、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』このような祈りは、必ず聞き届けられます。このような祈りをささげる者は絶対に後悔しない。このような心の態度を取ることだけが要求されています。非常にありがたい事実なのではないでしょうか。
ダビデは多くのいわゆる詩篇・祈りを書いたのです。彼の心をあらわす一番大切なのは多分詩篇32篇と51篇なのではないでしょうか。51篇の17節に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」と彼は書き記したのです。どうして? 結局、彼は体験的に知るようになったからです。へりくだることとは、自分が強く偉大な富んだ者ではない、本当にみじめでどうしようもないことを認めることです。
イエス様は貧しくなられた。もちろんこの大宇宙を造られる前に、イエス様は想像できない栄光を持っていたのです。け(れ)ど、イエス様は貧しくなった。イエス様の貧しさとは何であるかと言いますと父なる神に対して自分で選んだ依存です。 イエス様は父なる神から聞いたことだけを語った。父なる神が行なったことだけを行なったのです。ですから、私たちは一生懸命四福音書を読んでもイエス様はどういうお方であったか、ちょっとつかめません。われわれ人間は全く違うからです。イエス様の唯一の変わらない祈りは「わたしの思いではなく、みこころだけがなるように」自分は、別に、どうでもいい、無視されても、悪口言われても、イエス様は全部(父なる神に)ゆだねたからあらゆる不安・心配から解放されたのです。すなわちイエス様は決して自分で勝手になさることはなかった。父なる神に全くより頼んだ。いつも父の御心に服従なさったのです。「わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように」ちょっと想像できない、考えられない態度でした。なぜならば、この世に来る前にイエス様は何でも知っておられたし、何でもできたのです。何の不自由もなかったのです。けれどもこの地上に来ることによって本当に束縛されてしまいました。
黙示録の中で将来のことについて色々なこと書いています。われわれはイエス様に祈れば、助けを求めればイエス様は聞いて下さる。けれども、将来のことについてちょっと考えられないこと書いています。黙示録の6章15節から、444頁ですね。「地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(6・15〜17)
ここで「小羊の怒り」について書いてあります。普通だったら、小羊のささげられたいのちについて、小羊の変わらない愛について書いてあるのです。けれどもこの箇所を見るとやはり、この小羊なるイエス様の愛は変わるものですって。「小羊の怒り」と書かれているからです。イエス様ははっきり約束してくださいました。すなわち「わたしは迎えに来ます」。もちろん、今度十字架の上で死ぬためではない、わたしに属する人々を迎えに来るためです。このいわゆる空中再臨の時、主の恵みによって救われた人々は皆、瞬間的に見えなくなる 、死を見ないでそのままよみがえりのからだを持つようになり、イエス様と一緒になる。それだけでなく、その瞬間、いわゆる恵みの時も終わります。そのあとのことについて前に読みました聖書の箇所によると多くの人々は祈るようになります。もう一節見てみましょうか。ルカ伝の23章30節153頁になります。「そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます」とあります。
前に読んだのですがロシア、ソ連のレーニンという男とはもちろん神を否定していましたし、神がいない、いない、それを信じなければ殺されるべきです(と主張していました)。もう何万人、彼を通して殺されたかわからない。けれども彼は死にそうになったのです。そして彼は祈るようになったんですって。誰に向かって祈ったかと言うと、テーブルと椅子に向かって祈ったのです。けれどいくら立派なテーブルであっても、丈夫な椅子であっても答えはない。気の毒です。結局生きている間に祈らない人はかわいそう。祈ることとは、もちろんまず頭を下げることであり、助けを求めることです。助けを求めなければ、この世でもっとも気の毒な人々です。なぜなら助けを求めなければ、助け主を知る可能性はないからです。
(今週水曜日上尾で家庭集会があった。私は出席しなかったが、出席した方から、良かったので、是非筆耕して欲しいと言われ、CDを預かった。語るのはゴッドホルド・ベックさんでドイツから1953年に来日され、今年で満60年になる宣教師の方である。自分の日本語が完全であるかはわからない、自分は日本人として一人前でないといつも言われるが・・・。これを機会に三回に分けて掲載する。)
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