彦根城大手門橋の東方面。奥に見えるのは彦根東高校。2010.2.24 |
「恐怖」が彼らを一つにしたのです。したがって最も強い者も力を失ってしまう。主なる神の提供された救いを拒んだ、思い上がった人々は、もぐらのように、ほら穴の中に隠れようとしています。け(れ)ど、これらの人々は落ちかかって来る原子爆弾から私たちを守れと言っているのではなくして、御座にいる方から、また「小羊の怒り」から守ってくれと叫んでいます。これらの人々は原子爆弾や人間の前に隠れているのではなくして、「小羊の怒り」の前に隠れようとしているのです。
この箇所を見ながら三つのことを考えましょうか。まず第一番目、「いつ」彼らが祈っている(の)でしょうかね。二番目、「誰に」向かって祈るのでしょうか。そして三番目、「何を」祈っているのでしょうか。
この祈りの時は「怒りと裁き」の時です。すなわち彼らの祈りはすでに遅すぎます。今のわれわれの時代は聖書によると、「恵み」の時代、「救い」を得る時代であります。すなわち今日罪を悔い改めてイエス様のみもとに来る者は罪の赦しを得、永遠のいのちを自分のものにすることができるのです。
聖書においては、父なる神の怒りについては確かに多くのこと書き記されています。けれど「小羊の怒り」については余り書いていない。小羊である主イエス様の怒りということは結局、完全なる破壊を意味します。その愛からいのちを与えられたお方が今怒っておられます。もしも主なる神の怒りをわれわれの代わりに受けてくださったそのお方が怒られる時、だれがこれに耐えることができるでしょうか。もしそうであればすっかり駄目です。小羊が怒られる時にはもはや救いがありません。
ちょっと、逆のことを見てみましょうか。ロマ書8章31節と32節です。277頁になります。皆さん、何回もお読みになった素晴らしい箇所です。8章31節32節ですね。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
イエス様がわれわれの味方であれば、だ(あ)れもわれわれの敵となることができません。け(れ)ど、イエス様がわれわれの敵となればだれが救いを与え、いやすことができるのでしょうか。小羊が怒られる時にはすべてがおしまいです。
二番目、「誰」に対しておおぜいの人々が祈っている(な)のか。ここで書かれているのです。ちょっと考えられないことです。 「山と岩」に向かって、彼らは祈っているのです。これは全く空しい、役に立たない祈りです。確かに聖書の中によくイエス様の御名を呼び求める者が救われる、と約束されています。ただ神の救い主のもとにのみ救いがある、と聖書は言っています。イエス様は聖書において岩そのものと呼ばれています。今日もなおイエス様に自分の支配権をゆだねる人は揺るがない永遠の岩の上に守られるに違いない。け(れ)どもこの人たちは山や岩に向かって熱心に祈りますが、それは全く意味のないことです。無駄なことです。
ちょうど初めの人間であるアダムやエバが主の前から逃げようとした時のように。恐怖と不安とがこれらの人々を捕えているのです。罪の赦しと呵責(※)とが人間を主なる神様の前から逃れさせるのです。罪が人間を臆病者に、そして神の前から逃げる者にさせるのです。もしかすると今日来られた方々の中で主の前から逃げている(方がおられる)かもしれない。そのようなことをやめて悔い改めてイエス様のもとに帰ったほうが幸せです。イエス様こそがほんとうの逃れ場そのものです。そしてイエス様はもちろん人間ひとりひとりを待っておられます。受け入れて赦そうと望んでおられるのです。
(語られる中で時々頁数が出てくるが、いずれも新改訳聖書第二版の頁数である。※意味が不鮮明だが、正しくは「罪の責めと良心の呵責」と言うべきところだろうか。)
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