2013年2月5日火曜日

啓示録は人に無視された(下)

多くの人は、この世は日一日と良い方向へ進んでおり、あらゆる文明は進歩し続けていると考えています。この世は発展し進歩しており、堕落の事実などどこにもないと考えています。もしこの世が現在の勢いで進歩していくなら、キリストの理想の社会は間もなく地上にやってくるであろうと考えています。啓示録と人の考えには何という著しい対照があることでしょう! 

啓示録は、世の中が一瞬たりと進歩しているとは考えません。その証しによれば、世の罪悪は増し加わっており、また人はどうしようもないほど神ご自身と彼の救いを拒否し続けてきたと告げます。神には彼らを裁く以外に方法はありません。神が彼らを厳正に裁いたとしても、彼らはなお悔い改めないでしょう! 

これはこの世だけでなく、教会についても言えることです。教会は最初の愛から離れたがゆえに、ついに主から吐き出されてしまいました。現代の人の考えは神のみことばと完全に異なっています! 啓示録は神のための証しです。それは人と妥協することを求めません。そのために人から受け入れられないのです。啓示録において、多くの人が罪の世に対して持つべき霊と証しとを失ってしまったことは、悲しむべきことです。

本物の教会はある水準へと達するはずであると言っているのも、啓示録が人々に好かれないもう一つの理由です。啓示録第二章と第三章とで教会に要求された水準を見る時、この世を愛している信者は実に恥ずかしい思いをするでしょう。今日人々が最も注意を払っているのは働きです。最高のクリスチャンとは最も多く活動している人です。ところが啓示録は、もし人が初めの愛を失うなら、彼のすべての働きは無益であると言います。主に対して真実である者は死に至るまで忠実であって、また目を覚ましていなければなりません。これは確かにこの世的な信者にとっては耐え難いことです。

いつの日にか全世界の人々がみな救われることが、今日の人々の願いです。啓示録はこれとは正反対です。数限りない人々が火の池で永遠に滅びると預言しています。自らを神以上に親切であると考えている人たちは、この言葉をどのように受け止めるのでしょうか? 人々は、罪人に対する懲らしめは一時的であり、いつかは消え去るものと考えます。啓示録はこれとは正反対です。むしろ、人々は火の池で永遠に苦しみ、彼らには一日たりとも安息が与えられないと預言します。この書は災害、災難、のろい、問題、警告に満ちています。ですから人々から敬遠されてしまうのです! 結論から言うと、啓示録はあらゆる人の意見とは相入れないということです。このために今に至ってもなお、この書を学びたいという人は極めてまれであるのです。

しかし、主を愛する聖徒たちがこの書を取り扱う態度は何と違っていることでしょう! 彼らは必要に応じて供給を受け、失望している時には支えを、悲しんでいる時には慰めを、弱い時には助けを得ます。この書は彼らの涙をぬぐい去り、信仰を増し加え、熱意を呼び覚ますのです。主のために苦難を喜んで受けようとする聖徒たちは、何とこの書を読むのを好むことでしょう! 彼らは主のために貧しく、孤独になり、十字架の狭い道を歩みます。これは人の目から見れば苦難でしかありませんが、彼らはこの書によって慰めを受けます。信者たちがこの書から多くの希望を見いだしているのは事実です。主イエスの到来は彼の出現を待ち望んでいる人々に幸せを与えるとは思いませんか? この地上で苦難を受けている彼らにとって、天に携え上げられること以上に良いことがあると思いますか?

金でできた町、新エルサレムは彼らの内側に強烈な願いを持たせないでしょうか? たとえ彼らが多くのものを捨てたとしても、主とともに王となり、その何倍をも受けるのではありませんか? 彼らが今受けている苦難は一時的で、軽いものです。千年王国と永遠の御国における来たるべき栄光とは最も高く、最も秀でたものではないでしょうか? 啓示録はクリスチャンにとって真の祝福です!

(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第三巻163〜165頁より引用。その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。黙示21・18

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