昨日の浅間山 |
私たちは、啓示録が初期のクリスチャンたちによって軽んじられたことを知っています。彼らはそれを軽んじたばかりか、完全に拒絶さえしました。私たちは歴史を学ぶことによってこのことを知ることができます。この二十世紀においても、この書を喜んで読んでいるクリスチャンが幾らかいるにしても、大半の人たちはそれに対して冷たい態度を取り続けています。人々はそれを人目に触れない所に置きたがります。彼らがそれを読もうとしないのは、おそらく聖書そのものをあまり読まないからではないかと思います。そういう人が啓示録も読まないのは当たり前のことです。また他の人たちは聖霊に全く信頼しないために、聖書を読み続けるための忍耐に欠けています。彼らはしばしば、「この書はあまりに深く、あまりに奥義的である。わたしには難しすぎる」と言います。
実際、啓示録が人に受け入れられず、つまずきの石として考えられているのには、多くのはっきりとした理由があります。簡単に言えば、サタンの失敗を除いても、この書の内容は世的な信者に楽しい印象をほとんど与えないのです。それは千年王国の栄光と永遠の御国の楽しみに関わるものであるからです(20・1〜9、21・1〜22・5)。そこには栄光と真の喜びとがあります。しかし、この栄光と喜びを享受したければ、「死に至るまで忠実である」、「主が来られるまでしっかり持ち続け」、「目を覚ましており」、「悔い改め」、「熱心で」なければなりません。将来の世を得たいと思う者は、現在の世を放棄しなければなりません。もし彼らが今日苦難を受けるのでしたら、将来は栄光を受けるでしょう。その反対に、今この世の栄光を持っているのでしたら、将来は恥を被るでしょう。多くの世的な信者たちはこの世を手放すことはできません。なぜなら彼らはあまりにも長くそれを愛してきたからです。突然の別れを告げる時が訪れても、心の中ではそお愛情を断ち切るのは困難でしょう。啓示録を読めば読むほど、彼らはますます煩わされます。結局、読むのをやめてしまいます。
さらに、この書の大部分は神の激怒と裁き(第4章〜第19章)について述べています。しかし、人はどちらかというと神の優しさや愛について聞きたがります。彼らの想像の中では、神は決して怒ったり人を裁いたりしません。しかしこの書は神の義に関する書です。彼の激怒や裁きは人から敬遠されます。心の中で敬遠している書を彼らは果たして読むでしょうか?
この書全体は、初めから終わりまで超自然的な事柄に言及しています。神は人が全く天然の領域の事柄にのみ関係することを欲しておられません。神は私たちが顔と顔とを合わせて彼を見ることを願っておられます。彼は私たちを超自然的な領域で取り扱いたいのです。人は過去にあった超自然的な物語を黙認することができます。なぜなら過去の出来事や状況は現在の彼らの上にいかなる影響も与えないからです。しかし、もしこれらの超自然的な事柄が将来起こるとすれば、彼らの物質主義的な心や、しるしや不思議に対する彼らの不信仰は大打撃を受けるのではないでしょうか! もしこれらの事柄の多くが将来において実際に起こるとすれば、人はどれほど日々の生活を敬虔に過ごし、神に栄光を帰すべきでしょうか。多くの人々が啓示録の単純で直接的な教えに我慢できなくなり、この書をただ霊的に捕らえてしまっているとは何と悲しむべきことでしょう! 彼らはこの書を将来的に歴史的価値を全く持たない比喩としか考えようとしません! これは何ということでしょう! 神のもろ刃の剣の前に肉はどれほど恥じ入らせられるべきでしょう! 真に心はすべてのものにまさって偽るものです。
(『啓示録を黙想する』ウオッチマン・ニー全集第三巻160〜162頁より引用。「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」黙示1・3)
このコメントはブログの管理者によって削除されました。
返信削除