忍耐と 告げるかのよう 三須臾 |
私たちは、今日はじめて、神のことばを聞いて救われた人についてまなぶことができるのです(※)。
最初に私たちが教えられることは、救われた人たち、すなわち、良き地は、みことばを受け入れたということです。これが第一歩です。語りたもうのは神であって、その神のことばが人の魂に来るときに、いわゆる霊の目ざめとなるのであります。神から語りかけを受けて、霊の眼が開かれた者は、神に召された人とされるのです。
神のことばをきいて、それに従う者は、新しい人とされるのです。ほんとうに人が生まれ変わるためには、まず神のことばを受け入れ、そして日ごとにおこたらずに祈らなければなりません。
「主よ、私はあなたの御声に耳を傾けていますからみことばをきかせて下さい。私の罪、とが、あやまちを私に悟らせて下さい。あなたが語りたもうときに、その御声を聞きわけるようにして下さい」と。
このようにして日ごとに神からのことばを待つ者には、信仰の実がすみやかにみのりはじめるのです。
その人は最初に、罪の重荷に苦しみ、また悲しみます。次に、過去におかしたさまざまの罪、人に知られた罪や、心ひそかに犯した罪を一つ残らず神の告白します。そうすると、罪深い自分自身が恐ろしくなって来るのです。
自分というものに、自信が持てなくなります。自分という者は、罪を心から悲しむこともできなければ、憎むこともできず、神を愛することも、信じることもできない者のように思われて来るのです。それにもかかわらず、キリストなしには生きることはできないのです。が、人の魂がこのような状態におちいったときに、神のめぐみが授けられるのであります。キリストの十字架のみが、彼らの唯一のさけどころとなるのです。
この信仰の実を結ばせるものは、忍耐であると、イエスは教えておられます。
実を結ぶということは、たしかに、容易なことではありません。なぜなら、信仰の実は、私たちのこの目に見えるものではないからです。
種は人の知らない間に育つものであります。
(『みことばの糧』O.ハレスビー著岸恵以訳2月21日の項より引用。※2/18ルカ8・5、2/19マルコ4・5〜6、2/20ルカ8・14と著者は種まきのたとえについて過去三日間で説明してきた。さて、ハレスビーがどのようにして主イエス様を信じたかを詳しく詳述した本に『私はなぜキリスト者であるか』岸千年訳がある。それを読むと、今日の箇所がいかに彼の体験から来たものであるかがわかる。それにしても最後のことば「種は人の知らない間に育つ」とは言い得て妙である。三須臾もまた連日の寒さの中じっと耐えて、黄色き花を咲かせようとしている。植物のように素直でありたい。)
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