彦根城大手門橋から西方面。右手奥は彦根西中、滋賀大学。2010.2.24 |
ヘブル人への手紙の9章の中で次のように書いてあります。399頁になります。ヘブル人への手紙の9章27節になります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」いつか死ななくちゃいけないでしょうと、人間はみなわかっている。け(れ)ど、死んでから死後に裁きを受けることについて考えると、ちょっと問題になるのではないでしょうか。代表者、唯一のまことの弁護士であるイエス様なしだったら、もう悲劇的です。神の裁きと「小羊の怒り」とは、夢ではない、恐るべき事実です。「だれがそれに耐えられるでしょうか」と将来の人々が叫ぶのです。しかし、これは心からの問いかけではなくして、単なる恐れから出た叫びです。誰も主なる神の裁きに入る時にはその裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。なぜなら、小羊の裁きが正しいことを人間は認めざるを得ない。
最後に、三つの質問を考えてみたいと思います。第一番目、私たちは「いつ」祈るなのでしょうかね。今、恵みと受け入れられる時に祈るのでしょうか。それとも、恵みの時が過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされる時に祈るなのでしょうか。あらゆる人間にとって一番大切なのは、「祈り」・「助けを求める」ことです。イザヤ書の55章6節、素晴らしいことばが書き記されています。1117頁です。イザヤ書55章の6節です。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」祈ることとは主を呼び求めることです。助けを心から求めることです。
二番目、「誰」に向かって祈るなのか。生けるまことの神に向かって、イエス様をとおして永遠の救いを提供しておられる主に向かって祈るなのか、それとも後の日に岩や山に向かって祈るのでしょうか。結局、祈る対象は考えられないほど大切です。人間はほんとうに苦しむようになると(悩むと)「神さま助けてくれ」と言うでしょうが、この神とはいったい誰なのでしょうか。宗教と関係している神は空しい。まことの神は宗教と関係のない方であるからです。
(三番目、)「何」を祈るなのでしょうか。一時的な自分の守りについて祈るなのでしょうか。それとも不滅の魂のために祈るなのでしょうか。永遠のいのちのために祈るなのでしょうか。永遠のいのちとはどういうものか、今もちろんまったくわかりません。初めて完全な者として造られたアダムとエバでさえも永遠のいのちを持っていなかったのです。造られたいのちにすぎなかった。永遠のいのちは造られているものではない。イエス様は「わたしがいのちです」(と、言われた)。イエス様を受け入れた人は意識しないでしょうけれど、間違いなく永遠のいのちを持っている。行き先は決まっていると信じ、前向きに生活することができる。
今の時に罪人の私をあわれんでください、と祈ることこそがもっともたいせつです。いつか後の日に、岩や山に向かって、私たちの上に落ちかかれと祈っても終わりです。罪人の私をあわれんでくださいと祈るほうがはるかに賢明なのではないでしょうか。その人の罪が主イエス様の流された血によっておおわれている人だけがその日には守られるのです。ダビデはみこころにかなう祈りをしたから、喜んで言うことができました。詩篇の32篇1節2節だけ読みます。お宅で全部、初めから終わりまで読んだほうがいいと思います。856頁。詩篇32篇1節2節「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。」
イエス様は今の時代には、なお救い主です。しかし、裁きの日には「救い主」でなくて「裁き主」になります。われわれの生活の基礎はいったい何なのでしょうか。イエス様の成し遂げられた救いなのでしょうか。基礎がイエス様にある人は幸せです。詩篇の2篇12節を読むと次のように書かれています。2篇12節「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。」
イエス様を信ずる兄弟姉妹にとって来たるべき真っ暗な裁きの日に対して二つのことが言えるのです。すなわち私たちにとっては、まず、まだ救われていない知り合いの人々のために絶え間なく祈るということ、そしてその次にそれらの方々をイエス様のみもとに連れてくるために、いわゆる愛の労苦をするということこそ要求されています。どういう人々は今救われているかと言いますと、救われていない人々のために心から祈られている人々ではないでしょうか。多くの人は「いやあ、信じています」「信じています」と言います。しかし、救われていない人のために心配して祈らない人(と)は考えられないのではないでしょうか。なぜなら私たちはどうしてイエス様を信ずるようになったか。主はあわれんでくださったからだけなんです。け(れ)どいつか天国へ行くためではないョ、悩んでいる人、困っている人、孤独になった人々をイエス様のみもとに連れて行くために救われたのです。
イエス様は生きておられます。このイエス様は貧しくなった。無視されても、悪口言われても、イエス様は口を開かなかった。黙って死に赴かれるのです。どうしてでしょうか。イエス様は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられた。それは私たちがキリストの貧しさによって富む者となるためです。富む者とは大金持ちではない。健康人でもない。私でさえも受け入れられている。神の愛を受ける資格はないけれど、愛されているからありがたいと素直に信じ、感謝している人々ではないでしょうか。
(ベックさんはこのようなメッセージを一週間のうち何回となくされている。蚕はせっせと桑の葉を食べては糸を紡ぎ出す。60年間、語り続けて来たベックさんの源泉は桑ならず、神のみことばである聖書である。みことばは食べるものである。食べるからこそ蚕はあの美しい絹糸を生み出すのだ。われらもかくあらん!)
0 件のコメント:
コメントを投稿