The Infant Samuel,1777 by Sir Joshua Reynolds |
そのころ、フリードリッヒ・トールク博士、神学教授がハレ大学に教えに来た。トールクが大学に来たというので、数名のクリスチャンの学生が教えを受けるために他の学校から転校して来た。こういう信者たちのおかげもあってジョージの信仰は強められ、宣教師として仕えたい意欲が増すのだった。
もう一度、彼は父にドイツの宣教団体の一つに入る許可を求めて手紙を書いた。父は、もしおまえがこの道をあくまでも求めるのなら金輪際自分の息子とは認めないと言ってきた。父は前々からジョージが牧師になり、皆から畏敬される生活を彼と共に送り、終生安楽な生活をと望んでいたからである。ジョージは父の将来設計を実現することはとても請け合えないので、もはや父の財政的な支援は受け入れるべきでないと考えた。その支援金がたとえあともう二年間神学校を終えるのに必要としているお金であったとしてもだった。
ところが、神さまはジョージがドイツ語を数名のアメリカの教授たち(ハレに文学研究のために来た)に教えてその経費を賄うようにさせなさった。ジョージは自分がキリストのためにした小さな献身にすぎないと思ったが、神さまから大きな祝福をいただいたのだった。しばらくして、彼はヘルマン・バルという裕福な人に出会った。彼は家族とともに安楽な生活を営むよりは、むしろポーランドにいるユダヤ人の間で働くという道を選んだ人だった。バルの献身はジョージに深い影響を与え、ユダヤ人の宣教師になりたいという意欲が彼の心に芽生えた。
トールクはジョージにイギリスの大陸協会がブカレストに行って、主のために働いている年配の宣教師を助ける宣教師を派遣したいと考えていることを知らせてくれた。慎重に考え祈った結果、ジョージは行くことを申し出た。ところが、予期に反して彼の父も同意したのだった。
ブカレスト行きを準備しているとき、ジョージはかのヘルマン・バル(ポーランドのユダヤ人の宣教師である)が健康を害して、その働きを投げ出さざるを得なくなっていることを知った。ジョージはバルの代わりになりたいとの燃えるごとき情熱を覚えたが、すでにブカレスト行きを約束してしまったあとだった。
ある日、トールク博士を訪ねたおり、ジョージは教授からあなたは依然としてユダヤ人の間で働きたいと思っていますかと尋ねられた。彼はその質問に驚き、トールクにそうしたいという思いはこの数週間心の中に思っていたことですと話した。だが、二人は、ジョージがブカレストに行く献身をしたこと、そしてそれが主があがめられるために必要だということに同意した(Both agreed, though, that he had made a commitment to go to Bucharest, which needed to be honored.)。
翌朝までにジョージのブカレスト行きの願いのすべてがなくなってしまった。彼は神さまに回復してくださるように祈った。神さまはそうなさった。一方でジョージの熱心なヘブライ語研究は今や情熱と化していた。
10日ほどして、トールクはトルコとロシアの戦争ゆえに、宣教協会がブカレストに宣教師を派遣しないことを決めたことを知った。それでもう一度トールクはジョージにユダヤ人への宣教師になることについて彼が考えていることを聞いた。
祈って神さまに尋ねることをしてジョージは自らがロンドン宣教協会のユダヤ人伝道を押しすすめる手助けをしたいと申し出た。トールク博士を通して、ジョージはロンドン宣教協会の宣教志願生として受け入れられることになった。
神さまの奇跡的な介入を通してジョージは結核のゆえにプロシア国の軍役の免除を受け、彼がイギリスに渡れる旅券を受けとったのである。神さまがジョージ・ミュラーの夢にも思わなかった方法で彼をお用いになる計画が今まさに始まろうとしていたのだ。
(『Release the Power of Prayer』11〜13頁より訳出。英語を併記した所は誤訳の恐れがある所。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」ピリピ2・13)
0 件のコメント:
コメントを投稿