2022年6月1日水曜日

山を降りながら

さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。(マルコ9・9)

 三人の弟子は非常に興奮していた。この驚くべき体験を、逢う人ごとに語りたかった。自分たちの目で見、耳で聴いたこの体験を語ったならば誰かイエスを信じないで居られるであろうかと考えた。イエスはその軽率な心に答えてこのように戒められたのであろう。体験は尊い。けれどもそれは体験の持ち主にとってである。これを聞く人は容易に信ずる者でない。常識や理屈をもって逆襲して来る。その時、未熟である三人は焦るのみであってかえって困却するであろう。イエスの復活という大事件が多くの人に認められてからこそ、この体験を語っても人をして首肯せしめ得る。今しばらくは自分の心に奥深く秘めて置くがよい。心に秘めて反芻するがよい。特別に恵まれた深い神秘な経験は軽率に語るべきものでない。先ず心の中で味わい、その熟するのを待つべきである。

祈祷
主イエスよ、願わくは、深く私の心の奥に潜み、語るも惜しい体験を私にお与え下さい。そして私の霊魂がこれに酔って、見る人自ずからこのことを知らずにはおれなくさせるまでに満ち溢れさせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著152頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。一方、デーヴィツド・スミス〈1866~1932〉は『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の第32章 苦難と栄光のテーマで10「変貌」〈5/29〉11「復活の予告」〈5/30〉に続く12「山より降りて」の箇所で次のように語っている。

 天の父との交わりによって力を回復せられ、またカルバリ丘上を過ぎて彼方で待っている栄光を瞥見されて、苦難に赴く力を励まされなさったイエスは、その翌日はすでに平原の方へ顔を向けられた。けれども、もしこの「変貌」のことが伝わるとき、誤解を招きかねないと知られて、イエスはご自身の死から復活するまでは彼らの目撃するところを発表しないように命じられた。このことによって彼らは不審を抱くようになった。すでにイエスは、ご自身の受難を発表されるに続いて復活についても教えられた〈マタイ16・21、マルコ8・31、ルカ9・22〉 けれども、ただ驚異の念に囚われて希望揚々たる約束の意義を悟ることができなかった彼らも、今はこの事件のために注意を促されるようになった。しかし、彼らには隠語であってイエスが死よりよみがえられる意味を、彼らは一つ一つ考えつつ黙想にふけるのであった。このように沈思熟慮する間にこの神聖な山上において目撃した光景と、この問題〈引用者註:「受難と復活」のことであろう〉との間の関係を彼らは果たして各方面から研究したのであろうか。

 なお、これまでのところ必要ないと思い、省略してきたが、9「山上にて」という項目があった。この機会に参考のために記す。

 一週間の日が過ぎた。この間がどのように用いられたかさらに記録はないけれども、無為に時日を空費されなかったのはもちろんである。その事業に心身疲労されたイエスはぺエロ、ヤコブ、ヨハネを伴って山上に赴かれたが『彼らの目の前で、御姿が変わ』〈マタイ17・2、マルコ9・2)って見え給うのであった。〈中略〉この山はカイザリヤ・ピリポの近傍であり、ヘルモン山系中の一高峰で、わずかな距離を隔てて北にこの本峰が雪を頂いていたことだろう。)

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