2022年6月3日金曜日

「エリヤの来臨」について(2)

イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」(マルコ9・12)

 もちろん弟子らの言うところも間違っているわけではない。主の御再臨の前にはエリヤの精神で万事を改める人が現われるであろう。世界的に人心を改革して御再臨の準備をする人が出現するであろう。しかし、その前に主イエスの贖罪がなされなければならない。主が『多くの苦しみを受け』なければならないこともまた預言されているではないか。栄光の国を打ち建てる前に先ず十字架の道を歩まねばならないことを弟子らはどうしても会得しないのは遺憾なことではなかったか。が、これが人情であろう。私たちは気が短い。私たちはずるい。私たちは直ちに天国の栄光を握りたい。苦難の道を経ずして直ちに光栄のゴールに達したい。私たちの一身も、世界の全体も、辿って行く道は同じ苦難の道であって、この道を通って天国に行き着く事を忘れてはいけない。

祈祷
主イエスよ、あなたが栄光をもって再び来られるまで、私たちの世界を忍んで苦難の道を歩まざるを得ません。願わくは、速やかにエリヤを遣わして、万事を改められんことを。願わくは、私たちをも小さいエリヤとして万事を改め、あなたの再臨を促進する準備者の一人となして下さいますように。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著154頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。久しぶりにクレッツマンの『聖書の黙想』から引用する。この文章は5/26に記載した文章に続くものである。

 自分が何を口にしているか十分にわからないままに、ペテロは、我に帰ると、この天の祝福の経験がいつまでも続くこと以外に何も望むものは無い気持ちで、三つの小屋を建てましょうと言い出した。ちょうどユダヤ人が幕屋の祭りの期間に建てるように、一つは主のため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためにである。聖なる恐れが、彼らの魂の奥底を貫いていた。

 しかし、ペテロがどんなことを言おうかと迷っているうちに、雲が彼らをおおい、天の父の声が、天から聞こえて来た。「これはわたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」。実に、父なる神は、この終わりの時には、御子を通して語り給うていた〈ヘブル1・2〉。彼の証の言葉に耳を傾けないのは、不合理なことであり、愚かなことではないだろうか。父のふところにいますこの主のように、一体、父の御心の深さをあらわしえたものが今までいただろうか。やがて使徒たちがすっかり気を取り戻して、あたりを見まわした時には、もはや二人の人物は消え去ってそこにはイエスのほか誰も見当たらなかった。

 この光景はこの時期の幾つかの奇蹟のように、公には直接にあらわれなかったものであった。しかし、イエスは、彼のよみがえりの後になって、山上で起こったこの出来事についての知識が、弟子たちにとって意味を持ってくることを知っておられた。しかし当の三人の弟子は、この光景については、誰にも話さなかったが、イエスが死人の中からよみがえるのは、どういうことなのだろうと、ただただ不思議に思うばかりであった。ちょうど、今日の多くの人のように、キリストが栄光をお受けになる前には、まず死なねばならないことを知ってはいなかったのである。

 しかし、エリヤのあらわれは、弟子たちに、ユダヤの園の言い伝えを思い起こさせた。エリヤは、メシヤの先駆者として来て、マナのつぼと、アロンの杖を元にもどし、一方では、メシヤの到来の準備をするというのである。人の子がまず苦しんで死なねばならないとの、主の言葉は、このこととどんな風に一致するのだろうか。そこでイエスは彼らに、エリヤはすでに来たのであり、彼の敵たちは、預言の通りに、悪意のままのことをエリヤになしたのだと、教えねばならなかった。主の苦難の秘義は、弟子たちの心には、まだ解けないままだったが、主がバプテスマのヨハネについて語っておられるのだと悟ったのである。〈マラキ4・5〉※この弟子たちの悟りについては、マルコの福音書には記述はないが、マタイ17・13に明確に記述している。クレッツマンはこのことを踏まえて書いていると思われる。)   

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