2022年6月26日日曜日

この子供のように!(3)

それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。(マルコ9・36)

 幼児とイエス。どこか似たところがある。この幼児は誰であったか。ペテロの子であったか。知らない。イエスによくなついていた児である。荒くれた男が十二人も集まって喧嘩をしたばかりの直後である。その『真ん中に立たせ』て泣きもせずイエスに『抱か』れていたのは、この嫌な空気をイエスの温顔が償ってあまりがあったからでもあったろう。

 とにかくイエスは十二人のお弟子においてよりもこの幼児の中に慰めと親しみとを感ぜられたのである。十字架を眼前に控えて御心の中は随分苦しいものがあったに相違ない。十二弟子はこれを御慰め申すべき地位にありながら、それと反対な行動をしている。この幼児をご覧になった時に、主はご自身の姿に似たものを見出して『腕に抱き寄せ』られたのであろう。無邪気な謙遜。これこそ実に弟子らの学ぶべき実物教育であった。

祈祷
主イエスよ、願わくは私に幼児の心をお与え下さい。幼児のように無邪気にして謙れる心をお与え下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著176頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。引き続いてA.B.ブルースの所説を紹介する。6/24の文章http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_24.htmlに接続する文章である。

 実際、虚心に神をほめたたえることばが出てくるのは、乳児や幼子の口からである。御国の最も偉大な方〈イエス〉は、その腕に抱いていた幼子を野心に満ちた弟子たちの中央に立たせ彼らの高慢な精神を抑制し、新しく生まれた魂にとって蜜よりも甘い真理を語ろうとしておられる。

 第一の教えはこうである。御国において偉くなりたいなら、そうでなくとも御国に入りたいと願うなら、幼子のようにならなければならない。「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」

 ここで特別に比較されている子供の特性は、もったいぶらない謙遜さである。幼児期は、人間の思い上がりの所産であり、人間の野心がむさぼった戦利品とも言える階級的差別を全く知らない。王の子供は平気で乞食の子供と遊ぶだろう。それは万人共通の問題に比べて、大人が差別している事柄などは取るに足りないということを示している。子供が無意識にしていることを、イエスは弟子たちに意識的・自発的にするように求めておられる。世の成長した子らのように見栄を張ったり、野心に燃えたりするのでなく、心優しくへりくだっているべきである。身分、階級の別を無視し、御国における地位などに心を奪われず、純真な精神を持ってひたすら御国の王に仕えるべきである。この意味において、御国で一番偉い方、御国の王自身は、人々の中で一番へりくだった方であった。

 罪のために自分を卑下するといった型の謙遜は、イエスに無関係である。イエスの性格のうちには何の欠点も落ち度も認められなかったからである。しかしながら、自己の利害を顧みない無私無欲に支えられる謙遜ということでは、イエスは完璧な模範であった。イエスは少しはご自分のことを考えておられた、と言うことはできない。むしろ、イエスはご自分のことを全く考えておられなかった、と言うべきである。イエスが考えておられたのは、ひたすら御父の栄光と、人々の幸福のことであった。自分の勢力拡張を計るなど、イエスにはそのような動機の一かけらも見出せなかった。そんなことを考えるだけでも、身の毛のよだつ思いをされたに違いない。

 また、パリサイ人のように、神の御前に忌み嫌われるような性格は全く持ち合わせておられなかった。パリサイ人の信仰には、常に観客の存在を意識する芝居がかった行為があった。彼らは宴会の上席や会堂の特別席を好み、人々から「ラビ、ラビ」と呼ばれることを喜んだ。イエスは、人からの誉れを望むことも、受けることもされなかった。イエスは仕えられるためにではなく、仕えるために来られた。イエスは一番偉い方であるのに、自らを低くして一番小さな者ーー馬小屋で生まれ、飼葉おけに寝かされたことに見られるようにーーとなられた。世の人々にさげすまれる悲しみの人となり、ついには十字架にかけられた。このような驚くべきへりくだりによってイエスは神的な栄光を示されたのである。

 御国において高くされればされるほど、私たちは謙遜という面においてイエスご自身に似るようになる。イエスにみる邪心のない姿は、霊的成長を示す不変の特徴であり、それを欠くことは道徳的偏狭のしるしとさえなる。小人物は、善意であっても、もったいぶったり、たくらみがあったりするーー善行をしていると言いながら、いつも自分のこと、自分の名声・威厳・評判を気にしている。いつも同時に自分が崇められるように、神の栄光を現す方法を研究している。

 それに比べて、御国において大きな人は、召された仕事に何のためらいもなく従事し、この世で、あるいは来るべき世で自分がどんな地位につくか、と問う暇も興味も持ち合わせていない。偉大な統治者である主の名声を笠に着ることなく、私利私欲を忘れ、自分の使命に全身全霊を打ちこむ。神が与えてくださったものがあれば、ただ神が崇められることを願って、小さな仕事でも大きな仕事でも、それを完成させることで満足する。

 これこそ、永遠の御国で高い地位につく真の道程である。従って、イエスは、誰が御国で一番偉いかという問いについて、そこに差別は存在しないとして簡単に片付けてしまわれたのではない。ここでイエスは「誰が御国で一番偉いか、などと問う必要はない。そこでは優劣の差などない」と言われたのではない。反対に、そこには差別のあることが示唆されている。そのことはほかの所でも主張されている。キリストの教えによると、天上の国は、万人の平等を要求するやきもちやきの急進主義とは異質のものである。この世の国々においてと同様、天上の国にも種々の段階の差別が存在する。ただし、神の国と地上の国々との相違は、差別をもたらす原則の違いにある。地上では、高慢な野心家が名誉ある地位を得る。天上では、へりくだって自分を忘れる人に栄誉が授けられる。地上で謙遜な愛をもって一番卑しい者になろうとする人こそ、天の御国で一番偉い者になるであろう。)    

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