2022年6月13日月曜日

父親の訴え(下)

その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」(マルコ9・24)

 私どもの心の実写である。私どもは全く不信仰でもない。また全く信仰的でもない。信じたい、信じている、けれども何だか信じ切れない。かような心をどうしたらよいであろうか。ヨリ確かな信仰が与えられるように祈るのが第一であるが、とにかく持ち合わせた少しの信仰を用いることが大切である。信仰のみでない。愛でも謙遜でも忍耐でも私どもは多分には持っていない。が、持っているだけを用いるがよい。信仰が揺るがぬほどの巨大なものになるまでに待っているのではない。『不信仰な私をお助け下さい』と祈りつつ持っているだけの信仰を毎日働かせるのである。愛でも謙遜でも信仰でも、私どもは自分の所有の少量であるのに泣いていたとても何にもならない。持っている小さきものに忠実である時に、さらに大きいものが与えられる。

祈祷
神様、私どもは信仰と不信仰の持ち主である事を懺悔いたします。一躍して大信仰家となることは難しいと存じますが、日々少しずつ信仰の勝利を与えて、次第に不信仰を駆逐して下さい。

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著164頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 以下の文章は6/9のクレッツマンの文章http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_9.htmlの続きの部分である。

 「信ずる者には、どんなことでもできる」

 なんとすばらしい言葉であろうか。神をそのみことばによって取り上げ、神の全能の力の上に安らっている信仰は、決して失望に終わることはない。それは山をも動かしうるほどのものなのだ。深い感動と真剣なまなざしをもって、この父親は叫ぶ、「主よ、信じます。不信仰なわたしをお助け下さい」。

 彼は、自分の信仰の弱さを知って悲しむが、この信仰の不足を補い、信ずるために力を貸してくれる方として、ひたすら主に向かうのである。

 主が見出される所、すなわちみことばの中の主へと、ただ向かうならば、私たちの弱い信仰も、必要な時に力を受けることができるのだ。乏しさと悲しみの時が、この父親の悩める魂にとって、如何に早く過ぎ去ったかを見てみよう。その数を増していた好奇のまなざしの群衆の前で、主は、このあわれな子供についている汚れた霊をしかりつけ、権威をもって、子供から出て行き二度と悩ますなと命じられた。常にそうであるように、ここでも主の声は服従を求められる。)

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