イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」(マルコ9・19)
深い嘆息の御声である。何とも言えぬ悲調を帯びているではないか。主イエスが重荷としてお苦しみになるのは世の不信である。神に対する不信、これほどイエスの御心を痛めたものは他になかった。どうしてかくも世の人は天の父に対し、イエスに対して、信ずる心が無いのであるか。信仰さえあればその糸口を辿ってどんなことでも為し得られるのに、これがなくては実に縁なき衆生であって神と言えどもキリストと言えどもその人を如何ともすることが出来ない。信仰さえあれば神と私どもの連絡がつくのである。親と子がどんなに意見が相違しても良い。互いに信ずることさえ出来れば、心は離れて行かないのである。だから神様からご覧になればその子供である人間がどんな罪人であろうともとにかく天の父として神を信じさえすれば良い。さすればその信仰をたぐりたぐって救うことができるのである。だからイエスはこの子供の恐ろしい悪霊に憑かれたことを嘆息するよりも人々の不信仰なことを深く嘆息されたのである。
祈祷
主イエスさま、私はいつでも不信仰であなたをお苦しめ申しております。時には信じますが、またしても信仰がなくなります。どうか、如何なる時にも動かぬ信仰を与えてあなたと私とを結びつけて下さい。
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著160頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。クレッツマンは山の上から、山の下に降りて来たイエス一行を待ち受けていた現実に触れ、次のように語る。〈以下の文章はすでに6/6紹介のクレッツマンの文章https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_6.htmlに接続するものである〉
彼ら〈律法学者〉は弟子たちがみんなの前で、その子の父がイエスになおしていただきたいと連れて来た一人の男の子をなおせなかったことにつけこんで、鋭い質問を弟子たちに浴びせかけている所だった。主のいない間にこの弟子たちは、その子をなやましていた悪霊を追い出そうとして果たさなかったのである。
なぜ、みんなは弟子たちと論じているのか、とイエスが尋ねられると、学者たちが答える先に、悩み抜いていた父親がその子の呪われた身の上をしゃべり始めた。聞くことも話すこともできず、その上ひどいてんかんに襲われ続けているこのあわれな息子は、ちょうど主の前でもそうなってしまったように、幼い時から悪霊によって地面にたたきつけられ、苦しめられ、悩まされ続け通しで、彼は火や水の中にさえ投げ入れられ死のうとしたことさえあったということだった。
この父親は、弟子たちがまさにできなかったそのこと、つまり彼のあわれな子供をなおしてくれることを、どんなにか主にねがっていたことだろうか。彼はあのらい病人のように、「お心一つで」とは言わずに、「もしできましたら」という言葉を使った。主はおだやかに彼をたしなめられて、信仰の不足を指摘される。「信ずる者には、どんな事でもできる」と。
※この項はhttps://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/01/blog- post_23.htmlも参照されたし。)
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