2022年6月20日月曜日

十字架を正視する恵みに浴せ

「 彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(マルコ9・31〜32)

 二度も三度も最も明白な言葉でご自分の死を預言し給うた。けれども弟子らには解らない。解りたくないからである。栄光のキリストのみ夢みていた彼らには幾度明言されても苦難のキリストが解らなかった。彼らは主の十字架とご復活との後に至って始めて解った。

 私たちも気に入らぬ真理は見たくない者である。嫌いな事実は知りたくない者である。『また、イエスに尋ねるのを恐れ』る者である。主の十字架と正面衝突をするまでは如何にくわしく預言されても彼らは悟らなかったから、準備なき彼らは一時失敗した。ペテロの如きは特に恐ろしい失敗をした。ご復活後四十日間のご教訓が無かったならば彼らは全く敗北してしまったであろう。

 真理に対し事実に対し人に対し、自分の好まぬものであった時にはことさらにこれを正視し研究するの勇気と度量とを養わねばならぬ。

祈祷
主よ、あなたは十字架を正視し『エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向け』(ルカ9・51)給えり。されば、あなたの歩みし跡は直くして大なり。願わくは、好まない真理に盲目であろうとする愚かさより私たちを救い出し、苦難を直視しつつこれを踏み破る信仰と勇気をお与えください。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著171頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。クレッツマンは『聖書の黙想』で22 キリストの御国で最も大いなる者 という題名で、マルコ9・30〜50を述べている。その冒頭部分を以下に引用する。同書146頁から。

 人々にとって、キリストの御国の本質を理解することはどんなにむずかしかったことだろうか。主ご自身を置いてはそれをよく知る者は一人としていないのだ。残されている時が少なくなるにつれて、主は弟子たちにその御国とは何であり、また何でないかを教えるためにあらゆる機会を取り上げられた。

 主にとっては最後となる、エルサレムに上る日がやって来た。深い感情と厳粛さとをもって力をこめて、主は弟子たちに救いのみわざについての全内容を打ちあけられた。主は敵の手に渡されて死を遂げ、三日のちによみがえられる。苦しみと死によるほかには、人間を救う道はないのだ。しかし弟子たちは、このことのすべてを理解するにはほど遠く、また彼らにとってそれはあまりにも異様なことのように思えたので、主に問いただす勇気を持たなかった。このことを知り、信ずることはただ神の恵みによる他はない。)

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