2022年6月24日金曜日

この子供のように!(1)

『だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』(マルコ9・35)

 実に親切な教え方である。人が大ならんとするのは天性である。すべての向上も発展もここから生ずる。ただこれが排他的の性質を帯びてくる時に恐るべきものとなる。他を凌いで自分を高くしようと欲する時にそこには悪いものを含んでくる。他を倒すことが自分を大にする所以でなく、かえって他を大ならしめんと欲する者が天国において真に大なる者となるのである。

 人の後押しとなり、人の僕となり、人に仕え、人を高く人を大きくする手伝いを、黙って為す人こそ、愛の国で一番の役に立つ人である。共存共栄の国において自分だけ高くなろうとする人が用いられるはずがない。ある天使が他の天使よりも高く大きくならんとし、神よりも高く大きくならんと欲した。これが悪魔になったのだとさえ言われている。『みなのしんがり』『みなに仕える者』と書いてあるがこの『みな』という字によく注意しなければいけない。『ある人』ではない。『みな』である。
祈祷
主イエスよ、あなたは罪人の頭である私にさえ喜んで命を与えて下さいました。願わくは私をして『ある人』にあらず、『みな』の従僕となることを得させて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著175頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下は先ず昨日のデーヴィッド・スミスの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の続きの部分である。
 羞恥に耐えないままに彼らは黙っていたので、やがて甚だ有効な教訓を彼らに与えられた。『だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』と霊界の律法を授けられた。而してなおこれに説明を加えられた。あたかもそこへーー蓋しペテロの家に相違ないがーー室のうちに小児がいた。イエスはこの小児を団欒の中に伴い來って、その好んで慣用されるようにその小児を腕に抱き上げて(マルコ10・16参照)これを生ける比喩とされた。

 一方、A.B.ブルースは『十二使徒の訓練』で、イエスが家に入って弟子たちに教訓を垂れようとなさった、その心はいかなるところにあるのかに着目して次のように述べる。これは同時に6/22https://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_22.html の続きに位置する文章である。

 最も手に負えない仕事であるというのは、人間の意志を普遍的諸原理に心腹するように訓練し、互いの間に愛の律法が認められるように導き、善良な人々の心から、誇り、野心、虚栄、嫉妬などを追い出すことほど、困難な仕事はないからである。人は祈り方において、宗教的自由において、キリスト教的活動において大きな進歩を遂げながら、また、試みにあって筋を曲げず、キリスト教の教理に精通しながら、なお気質の点で欠陥を見出すことがある。つまり、神の栄光を求める段階でも、目は自分の栄光に向けられているといったように、自己追求的な強情さが抜けていないことがある。

 最も必要な仕事であるというのは、御国での自分たちの地位に一番の関心を寄せているような有様で、いったいそのような弟子たちが御国の仕え人として何ができるのか、と問われているからである。野心満々で互いにそねみ合っている人々は、自分たちの間で争いを起こし、他人を辱めようと機会をうかがい、周囲に混乱やあらゆる悪事を引き起こすだけなのである。

 そういったわけで、イエスはこの時を境に、弟子たちの中から自由勝手に振る舞っていた悪魔を追い出し、ご自身の柔和と謙遜と愛の精神を塩のように彼らのうちに溶け込ませる仕事に、特別熱心に打ち込まれた。それは少しも怪しむに足りない。イエスはご自分の使命の成否が、この未来の使徒たちに塩気をつけ、彼らをご自身に代わる人物に育てる努力にかかっていることを、十分に知っておられた。その教授ぶりや内容がイエスの関心の深さを表している。この点で特に興味深いのは、教材として、家の中にいた子供を用いてなさった最初の教えである。)  

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