イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・28〜29)
祈っても私たちには『この種のものは、何によっても追い出せるものではありません』ではあるまいか。昔の祈りと今の祈りと弟子の祈りと私たちの祈りと時代を異にしているからその力も異なって来たのであろうか。それではキリストは昨日も今日も変わらないとは言えまい。私たちは昔の人のように祈っていないに違いない。昔の人のように信じて祈っていないに違いない。昔の人のように常住座臥祈りの人となっていないに違いない。いつも神に酔っぱらっているような祈りの人とならなければ、狐につかれたように神に憑かれた人とならなければ、神の大愛と大能との中に溺れている人とならなければ、本当の祈りの力は出て来ない。残念なことには神の宝庫にはあふれるばかりに宝が満ちているのに、これを取り出す信仰がない。神の与えてくださった力が使用されずに私どもの中に、教会の中に残っている。
祈祷
神よ、願わくは未だ使用されていないあなたの賜物を活躍させる祈りの力を私たちにお与えください。使徒時代には用いられて今は誰もその使用法を忘れた大なる祈りの力を今私たちに返しお与えください。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著169頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。※祈りは、私たちは多方面からイエスさまから直接教えられる最も大切な恵みの一つである。今日は、午後経験させていただいた祈り会でのK.T兄のメッセージを紹介させていただきたい。録音しなかったので、多分に引用者の勝手な考えが混じっていることはあらかじめお許し願いたい。
預言者イザヤは遠い昔「わたしの家は、すべての民の祈りの家である。」〈イザヤ56・8〉と神様の御思いを語った。ここで「わたし」の家と言われるお方は、言うまでもなく、天地万物をお造りになった創造主である神様である。そして、この「神の家」をつかさどる偉大な大祭司がイエスさまだ。
この方は「御子として、神の家を忠実に治められる」〈ヘブル3・6〉お方だが、同時に、このお方は、私たち人間が「血と肉を持っているので」「同じようにこれらのものをお持ちに」なり、私たちの罪のために十字架上で血を流し、救いのみわざを為してくださった大祭司であるからして、「私たちの弱さに同情できない方では」ない〈ヘブル2・14、4・14〜15〉。だから私たちはいつも自らの弱さを携え、主のみもとに近づくことができる。
先日も愛する兄弟が弱さを身にまとって主の御前に出られた。
幸いなことよ。
弱っている者に心を配る人は。
主はわざわいの日にその人を助け出される。
主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、
地上でしあわせな者とされる。
どうか彼を敵の意のままにさせないでください。
主は病の床で彼をささえられる。
病むときにどうか彼を
全くいやしてくださるように〈詩篇41・1〜3〉
昔、ある方が、「祈りとは弱さを告白する」と言われたことを思い出す。すなわち神の家の主は人の弱さを知る方であるから、私たちは弱さをそのまま祈りの中でさらけ出すことができるということだ。その上、ありがたいことに、みことばは「私たちが神の家です」〈ヘブル3・6〉と言い、私たちは「いつまでも残る財産、〈主イエスさまご自身〉を持っている」〈ヘブル10・34〉と言っている。いつでも、罪の赦しの上に立ちながら、兄弟姉妹とこの「神の家」「祈りの家」に集まることをやめずに歩み続けたいものだ。〈ヘブル10・17〜25〉
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