『だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』(マルコ9・35)
多少気概ある者、多少力量ある者にとって殊にむづかしい注文である。が、実は殊に多少の力ある人のために与えられた教訓である。グヅになってしまえと言う意味でもなく、またグヅな人を賞賛したわけでもない。人間の最も恐るべき主我心と傲慢信徒を克服することを命じ給うたのである。箴言に『自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる』〈箴言16・32〉とあるのはこの教訓の註解とも見られる。自己を本当に力強いものとするには先ず自己に克たなければいけない。自己を克服して互いに従者たらんとする人々の社会。それは真の調和の社会であり天国の姿であらねばならない。人のために自己をささげて従者となる精神を養うことによって、自己をも造り上げ社会をも完成して行くようになるのである。
祈祷
主イエスよ、人の上に立ち人を支配せんとする我欲はかえって自己を破壊しまた社会をも傷つけるものであることを悟らせ、私をして喜びつつ人の従者となることを得させ給え。アーメン
(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著176頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。今回題名については昨日今日の聖句に「この子供のように!」とつけるのは些か戸惑いがあったが、昨日のA.B.ブルースの文章を読む限り、マルコ3・35〜37とひとまとめに考えたらどうかと思い、その題名を拝借した。またその際、彼が「つまり、神の栄光を求める段階でも、目は自分の栄光に向けられているといったように、自己追及的な強情さが抜けていないことがある」として主イエスがこのような訓戒を述べられた背景を説明していたが、その文章を読みながら、なぜかスポルジョンの『朝ごとに』の一文章が思い出されたので、以下に写してみた。同書の8月16日のものである。
御名の栄光を、主に帰せよ〈詩篇29・2〉
神の栄光は、神の性質と行為の結果である。神の品性は栄光に満ちている。なぜならおよそ聖なるもの、善なるもの、愛すべきものはすべて神の中に貯えられているからである。神の品性から流れ出る行為もまた栄光に満ちている。しかし神はその行為により、被造物に彼の善なること、あわれみ深いこと、義なることを表そうとされる。が同時に、それらの行為による栄光が、すべてご自身に帰せられるべきであるという点に関心を持たれる。私たちの中には誇るべき何ものもない。ーー私たちを他と異なるように造られたのは誰であるか。また、私たちは恵みに満ちた神によって与えられない何ものがあるというのか。それならば私たちは、主の御前に謙遜に歩むように心すべきではなかろうか。
この宇宙には、ただ一種類の栄光しか入る余地がない。そのため、私たちが自らに栄光を帰するならば、その瞬間に、私たち自身をいと高き方の競争者の地位に置くのである。わずか一時間しか生きられない昆虫が、彼をあたためて生命を得させた太陽に対して誇ることがあろうか。陶器が、自分をろくろにかけて造った陶器師以上に自らを高めることがあろうか。さばくの砂がつむじ風と争うことがあろうか。あるいは大海の一滴があらしと戦うことがあろうか。義なる者よ、栄光と力とを主に帰せよ。しかしおそらく、クリスチャン生活において最も困難なのは、次のみことばを学ぶことであろう。「私たちにではなく、私たちににではなく、ただあなたの御名にのみ帰してください。」これは神が常に私たちに教えられんとする教訓であり、時に苦しい懲戒によって教えられる学課である。
もしクリスチャンが「私を強くしてくださる方によって」〈ピリピ4・13〉という点を取り除いて、ただ単に「どんなことでもできるのです」と言うならば、遠からずして彼は「私は何もすることができない」といううめき声をあげ、ちりに伏して嘆くであろう。私たちが主のために何かをなし、主が私たちの成したことを嘉納されたならば、私たちは自らの栄冠を主の足もとに置き「私ではなく、私にある神の恵みです」〈1コリント15・10〉と叫ぼうではないか。)
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