2022年6月4日土曜日

「エリヤの来臨」について(3)

しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。(マルコ9・13)

 マタイ伝には『そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた』(17・13)と付記してある。預言者マラキは数百年前に『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。』(マラキ3・1)と言い、また『見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす』(4・5)と預言した。

 バプテスマのヨハネはこの預言に応じて主イエスのために準備者として遣わされた。即ちユダヤの野に叫んで悔い改めのバプテスマを施したのである。ユダヤ全国民は彼に聴いて一斉に悔い改めるべきであったが、それは一部分の少数者に過ぎなかった。人々は心のままに取り扱って、ヘロデの如きは遂に彼を殺してしまった。先駆者をこのように取り扱ったところのユダヤ国民がどうしてキリストを受け入れるであろう。ヨハネを取り扱ったのと同じ取り扱いがイエスを待っていることは自明の理ではないかと、弟子らに諭し給うたのである。

 『人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にした』とは何という悲しい言葉であろう。エリヤは来た。キリストは来た。しかし世界はまだ救われない。好き勝手なことをしているからである。私どもに来たり給うキリストを、聖霊を、私はどんな風に待っているであろうか。

祈祷
天の父よ、私はあなたに甘え過ぎております。あなたの遣わし給う御子キリストを、日々私の心に働きかけ給う聖き御霊を、どんな風に待っているでしょうか。願わくは、私のズルさと怠慢をお赦し下さって、時々刻々に『悔い改めのバプテスマ』を受けて、それに相応わしい実を結ばせて下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著155頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。F.B.マイヤーに『信仰の勇者ーーエリヤの生涯から』という著作がある。この本はエリヤについて20の項目をあげ、順次にエリヤの生涯を聖書〈1列王17章、18章、19章、21章、2列王1章、2章〉に基づいて説明していく。その終わりに近い、19項目目はその題名もズバリ「変貌の山」である。その中から254頁以下の文章を今日と明日の二回に分けて分載する。

 二人の人物が変貌の山に姿を現わした理由として、以上のようなことがあげられる※。彼らはそこにしばらくの間立ち、それから、もといた栄光の国へとあわただしく退いて行った。彼らはキリストの尊厳を証明したのち、すぐさま身を隠したーーそれは、彼らの出現によってかき立てられた関心が彼らにとどまるのではなく、すぐさまイエス・キリストの人格に集中して向けられるためであった。

 彼らは天国の最新情報について話したのではなく、彼らの輝かしい過去、あるいははるか先の未来について語ったのでもない。彼らは、キリストがまもなくエルサレムで経験しておられる最期〈字義どおり訳せば出国〉について話したのである。

 偉大な人物は偉大な思想を好む。しかも、この驚嘆すべき死と栄光にいろどられた復活ーーそれはあらゆる世界に影響を及ぼし、神の御子を言い知れぬ恥と悲しみに巻き込むものであったーーほど偉大なテーマがほかにあるだろうか。この観点からすれば、モーセとエリヤは、ガリレオ、ケプラー、ニュートン、ミルトン、ファラデーといった人類の偉大な思想家たちの先鞭〈せんべん〉をつけたことになる。これらの人たちは十字架の福音の中に、巨人としての彼らの知性に必要な資料室を見いだしたのである。

 天はイエスの最期というテーマで沸き立っていた。天使たちはほかのすべての関心を捨てて、この運命づけられたゴールに向かっての一歩一歩に、驚きと畏敬と愛のこもった思いを注いでいた。天にあるいっさいのいのちは、この壮烈きわまる悲劇の前にかたずをのんでいたと考えられないだろうか。であるから、かなたの岸辺から来たばかりのこの二人が、彼らの国で煮えたぎっている話題を口にしたのは、ごく当然なことと言えよう。

 彼らの救いは、キリストの驚嘆すべき死にかかっていた。自分自身のいさおしによって神に受け入れられる可能性を持つ人がいるとすれば、彼らはその最右翼であると言えよう。ところが彼らは、そのような立場を撤回するのに、だれよりも熱心であったにちがいない。彼らは過去の経験をふり返ってみる時、自分自身の不完全さと罪とを深く意識するのであった。モーセはマサでのかんしゃくを覚えていた。エリヤは不信仰に襲われて砂漠に逃げ出したことを思い浮かべた。また彼らは永遠の光に照らす時、地上のおぼろげな光のもとではかなり善であると思われた多くのものの中には悪が忍び込んでいるのを知った。彼ら自身にはなんのいさおしもない。彼らの救いの希望のあるところは、私たちのそれのあるところと全く同じであった。すなわちそれは、主が冷酷きわまる死に打ち勝って、すべて信じる者のために天の御国の門を開いてくださったという事実の中にある。(明日に続く)

※なぜ二人の人物が、それも特にエリヤが、「変貌」の重大な時の代表として選ばれたかは、マイヤーが三点について、すなわち①主イエスの尊厳を証明している②この世を去る時の特殊な事情〈エリヤの携挙〉③その働きは明らかに終わっていた、と説明していることを指します。)

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