2022年6月8日水曜日

お弟子たちにはできませんでした

すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、、先生のところに連れてまいりました。・・・それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。。」(マルコ9・17〜18)

 学者の勝利、弟子らの敗北である。イエスを瞬間でも離れて弟子らに勝ち目はなかった。学者らの眼から見れば、イエスの敗北と見えたであろう。然り、弟子の敗北はその師の敗北を指さす。イエスはかつて弟子らに悪霊を追い出す権威を与えたのではなかったか。かつて巡回伝道から帰って『悪霊どもでさえ、私たちに服従します』と言って喜んで報告したではないか(ルカ10.17)。今イエスご自身が逆境に立ち、頻りに十字架の預言をなされるので彼らの元気は消沈しその信仰も燃え下がったのであろう。私たちはこの場合における弟子らのように逆境のために信仰の元気も消沈することが度々ある。しかしそれは実に主イエスに対してすまないことである。弟子らの不信仰よりくる失敗は群衆のイエスに対する信仰さえも鈍らせてしまった。さればこの病人の父もイエスを『主よ』と呼ばないで、わずかに『先生』と呼んでいるではないか。さらにイエスに対して『もし、おできになるものなら・・・』(22節)などと失礼な言葉を出すに至ったではないか。弟子の不信仰がその師に迷惑をかけることは昔も今も同じである。

祈祷
主イエスよ、願わくは私たちを憐み不信仰より救い出して下さい。願わくは、私たちの不信仰と無能とによってあなたの御名を汚すことがないようにして下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著159頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 青木さんがじっくり霊解を物されているのに比べ、やや先取りの嫌いがあるが、昨日のDavid Smithの『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』中の引用文1「学者及び群民隠退の地に侵入」の次の項目を以下に転写する。

2「イエスこれを癒す」

 攻撃のただなかにイエスは出て来られたが、たちまち群衆を驚かせるべき事件が起こった。未だ変貌の姿の名残を留めたイエスの御顔はシナイ山上より降り來ったモーセの顔〈出エジプト34・29、30〉のようなものがあったろう。彼らは駆け寄ってイエスに挨拶した。イエスはその騒動の原因を問われたので悶々としていた父は詳らかに事情を話した。

 イエスは弟子の失敗を聴いて『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ』と叫ばれた。『いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。』〈ルカ9・41〉彼らはその少年を連れて来たが、少年は興奮し激しい発作に襲われ、苦悶しつつ泡を吹いて地上に倒れた。気の毒な父の心中は病の子にまさって苦痛に苛まれていた。

 イエスは両者を救う思召で、その父に向かって『この子がこんなになってから、どのくらいになりますか』と問われた。父は『幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください』と答えた。彼はほとんど絶望していた。弟子たちの無能が彼の信仰を揺るがせたのであった。すでに彼らが失敗したところをイエスができるとは期待しなかったのであった。

 イエスはその絶望的な彼の訴えをそのままに受けて『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです』と応じられた。非難のうちにもなお恵み滴るみことばと祝福に満ちた御顔の色に彼の失望は霧散して『信じます。不信仰な私をお助けください』と叫んだ。このように父の信仰を握ったのを見て、イエスは小児の治療に取り掛かられた。『おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度とはいってはいけない』と仰せられるや、大きく叫んで、ひどく転がりまわり、全く死人と同様に小児は倒れたが、イエスは彼の手を取り、これを起こし、その病を癒して父に返されたのであった。 )

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