2022年6月2日木曜日

「エリヤの来臨」について(1)

そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。彼らはイエスに尋ねて言った。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」(マルコ9・10〜11)

 『死人の中からよみがえる』という御言葉が喉にひっかかって腹に通らない。彼らは終末の一般的復活は信じている。が、特別な意味でイエスが死なねばならないということが諒解できなかった。彼らはイエスをメシヤ即ち救い主と信じていた。だから直ちに栄光の国を打ちたてるであろうとのみ信じていた。そこで今、山の上で見たエリヤが学者らの説くように、直ちにメシヤ王国の建設準備にとりかかろう、そしてイエスがその王国の君主となり給うのではなかろうかと思ったので、この問いを発したのである。人と言うものは、信じたいことのみを信ずるものである。自分の心に偏見があるとどうしてもそれを信じたい。それに反する真理は幾度聞いても心に入らぬ。自分に勝手のよい方に解釈したいものである。誰に対してでも、何事に対してでも、判断をする時は公平無私、虚心坦懐であらねばならない。

祈祷
主イエスよ、私どもは自分の心にかなうことのみを信じ、その道をのみ歩みたいものであります。どうか私の中からこのような私心を去り、正直な謙遜な心をもって御旨を悟るものとならせて下さい。たといそれが自分に都合の悪いものでありましょうとも。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著153頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 さて、デーヴィツド・スミス〈1866~1932〉は『受肉者耶蘇〈Days of His Flesh〉』の第32章 苦難と栄光のテーマの最終項目として、昨日の12「山より降りて」に続き、13「エリヤの来臨」と題して次のように語っている。

 彼らは下山途中その意義を深く語っていたものでことにユダヤ人に関係する〈Jewish minds〉一大問題があった。ユダヤ人一般はメシヤの降臨に先立って、その贖い主を迎える用意をイスラエルに整えさせるためエリヤが再びこの世に現われて、有力な改革を遂行するものと期待された。今彼らが目撃した光景は、この教理とどういう関係があるかを知ることに苦しんだのであった。エリヤは事実来たけれども、どうしてこのように来ることは遅く、去ることは速やかなのであろうかと※。彼はメシヤであるイエスよりも先に来て、イエスの降臨前、その予定の改革を全うすべきであった。即ち彼らはこのことを主に尋ねたのであった。

 考えてみると、エリヤの再来は単なるラビの夢に過ぎないのはもちろんであったけれども、イエスは常にその時代思想に厚意を示し、すでにバプテスマのヨハネが使者として来た記念すべき日にも、このユダヤ的観念に対して愉快な註釈を与えられた。イエスはヨハネに対する賛辞に続いて『あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです』〈マタイ11・14〉と仰せられたのであった。

 ヨハネはエリヤに対して期待されたところを現実に行なったのであって、メシヤの先に進んでその道を準備するために来たのであった。このことばは実に適切でしかも新しい適用であったけれども、使徒として、その職分に心を留めなかった弟子たちはこのことばを記憶していなかった。それゆえ今イエスは自分を待っている苦難について新たな暗示をなすべき機会を捕らえて再びこれを繰り返された。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』〈マタイ17・11〜12〉と。

※スミスがこのように書いているのは、エリヤが変貌山上に姿を現し、忽ちのうちに見えなくなったと弟子たちが思ったことを指しているのでないかと思ったが・・・)

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