2022年6月22日水曜日

愚かな夢、だれが一番偉いか(下)

イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。(マルコ9・33〜34)

 途上で大声を挙げて『だれが一番偉いか』と争ったのは醜い。実に醜い。けれどもイエスは聞かぬふりして歩いていた。『家にはいった後』始めて静かに尋ねたのである。思慮深い同情深い行き届いた愛の親心ではないか。大声で喧嘩している子供を大声で叱り飛ばす思慮のない親もある。火で薪を救うことはできない。人の見ている途上で弟子を叱りつけて弟子に恥をかかせたくはない。

 イエスは今、十字架を眼前に控えて悲痛な心で居られる時であるのに、よくこんなに余裕のある静かな寛大さが持てたものである。さすがのペテロも何も言えなかったと見える。黙然として一人も答える者は無かった人格の威力は大きいものである。イエスの見ていない所では各自がてんでに自分の大なる所以を発見し、これがために争うのが当然なように思えたのであるが、イエスの前に出て見ると、赤面するの外何物もなかった。

 ペテロがマルコにこの事実をここに書き残させたのは懺悔心の一つでもあったろう。私どもも高ぶる心の起こった時はイエスの面前に出るがよい。まさに十字架に上らんとするイエスの面前に出て、自分の姿を見るがよい。

祈祷
温かい情けと思慮深い愛とをもって私たちをいつくしみ給う主イエスよ。願わくは、私たちの心より一切の高ぶりを取り去って下さい。高ぶる心が私の衷に起ころうとする時、直ちにあなたの面前に出て恥じ赤らむことをお許し下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著173頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。以下の文章は6/19のA.B.ブルースの『十二使徒の訓練』所収の文章http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/06/blog-post_19.htmlの続きの部分である。

 それに対して、十二弟子は旅の途中、天の御国で誰が一番偉い地位につくか、ということを論じ合っていた。福音物語は、驚くほどの不面目な対照を再三再四にわたって見せつけている。主の受難について新たに知らされた弟子たちが、上席に着くことを巡って互いにそねみ合い、激論を戦わせている様は、あたかも悲劇ドラマが喜劇に転じたようなものである。 

 この見苦しい場違いな論争は、あの天からの御声に添えられた「彼の言うことを聞きなさい」という指示がやはり必要であったことをはっきり示している。それにしても、弟子たちはその指示になんと不従順であったのだろう。彼らはイエスが語っておられる時には、うなずいて聞いていた。やがて人の子が御国の栄光をもってくるのを見る、とイエスが断言された時、彼らは喜んで聞き入っていたのだ。ところが、栄光に先立って起こる苦難について語られたことに対しては、彼らの耳はツンボ同然であった。彼らは主が十字架について語られた時、瞬時の悲しみを味わったが、すぐそれを忘れてしまい、栄冠を夢見るようになった。ちょうど親の死を忘れて、続けていた遊びに夢中になっている子供のようである。「御国が到来すると、私たちはみなどんなに偉くなるだろう」と彼らは考えた。そして、共通の栄光を夢見ることから、そこで最大の分け前にあずかるのは誰か、という無益な論争に簡単に陥って行った。虚栄と嫉妬が互いの心の中に渦巻いていたからである。

 「その御国において、われわれはみな平等に高い地位につくのであろうか。それとも、誰かがほかの者より偉くなるのだろうか。やがて現れる栄光の予表の目撃者として選ばれたペテロ、ヤコブ、ヨハネの特別な恵みは、御国における優位を意味するものであろうか。」おそらく三人の弟子はそれを期待し、他の弟子たちはそうでなかったために、論争が始まったのだろう。彼ら全員が最高位につくことなどあり得ない。従って問題中の問題は、誰が最高位につくかということだった・・・一方で虚栄とうぬぼれが、他方でそねみとねたみが競合しているかぎり、これは解決困難な問題である。

 カペナウムに着くと、イエスは早速、機を見て弟子たちの論争に焦点を合わせ、その論争が彼らの気質や意志の訓練に役立つよう、謙遜とそれに関する主題について重要な教えを述べる絶好の機会とされた。イエスが本腰を入れて着手されたことは、十二弟子の訓練のためにすでに始めていたことの中で最も手に負えない仕事であるとともに、最も必要な仕事であった。

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