2022年6月10日金曜日

ああ、不信仰な世だ(下)

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」(マルコ9・19)

 大島の療養所を訪問した時のことである。見るも気の毒な肉体の持ち主であるが、霊魂は益々冴えている。霊交会の信者の兄姉方の喜びに満ちた顔を見て非常に感動した。その小集会の席上一人の兄弟は立って神の愛について証をした。その中に「神の愛を信ずるということは易しいことである』という言葉があった。私はあの腐り行く肉体を持ちながら、どうして神の愛を信ずることが易しいのだろうかと思った。が、しかし、それが実に神の御霊の御力であることを感じた。

 信ずることは純真な霊魂の本来の状態であり、信じないことは逆になった心の状態である。イエスさまも神を信ずることが易しいことであり、信じないことが不自然なことと思われたに違いない。ルカ伝(9章41節)を見ると『ああ不信仰な』の語の下に『曲がった』の一語が加えられて、『ああ不信仰な、曲がった今の世だ』と言っておられる。この『曲がった』と訳しているじは『転倒する』という意味である。信ずるのは直ぐなことであって、信じないのは曲がっているのである。信ずるのは心が真っ直ぐに立っているのであって、信じないのは心が転倒して逆さまに立っているのである。信ずるのは自然なことであり、信じないことは不自然なことである。

 主は三年半も、信ぜよ信ぜよと説いておられるのに未だ彼らは信じようとしない。主はもはやご在世の時も短いのにいつまでも不信の中にさまよっている彼らを見て思わず嘆息の声を発せられたのである。

祈祷
主よ、私に信仰を与えて下さい。何はなくてとも天の父とあなたとを信ずる信仰をお与えください。大山崩れるともあなたを信じ、周囲ことごとく逆境に変わってもあなたを信じ、私が信ずるところがすべて逆転しても従容としてあなたを信じて、動揺することのない者として下さい。アーメン

(以上の文章は『一日一文マルコ伝霊解』青木澄十郎著161頁より参考引用し、題名は引用者が便宜的につけた。 この箇所について、5/31掲載のA.B.ブルースの末尾の文章をもう一度読みたいので、その部分を下に再録する。http://straysheep-vine-branches.blogspot.com/2022/05/blog-post_31.html

 真実、この肉体と呼ぶ幕屋の中にあって、悲しみの世に住んでいる私たちは、重荷に耐えかねるように、苦しみ悶える時がある。これは私たちの弱さである。そして、このこと自体は罪ではない。時によってはため息をついたり、「十字架が過ぎ去ってくれたらなあ」と思わず口に出すことも罪を犯すことではない。イエスご自身でさえ、時に、人生の疲れを覚えられることがあった。そうした際、イエスの口からいらいらしたことばが出た。山を降りて下界で行われていることを知った時、イエスはただちに、そこに居合わせた律法学者たちの不信仰、弟子たちの弱い信仰、罪の呪いの結果をまともに浴びた人類の悲惨に関連して、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう」と嘆かれた。

 愛に満ちた人間の贖い主〈イエス〉でさえ、善を行なうのに飽きるーー罪人たちのちぐはぐさにでくわしたり、弟子たちの霊的な弱さを担うのに飽きるーー誘惑を感じられた。従って、そのような飽きを瞬間的に感じたからといって、必ずしも罪を犯したことにはならない。むしろ、それは私たちが負うべき十字架である。だが、それに溺れたり、打ち負かされたりしてはならない。イエスはそのような感情に屈服してしまわれることはなかった。ご自身が住んでいた世について不満をぶちまけられたが、世のために愛の労苦を惜しまれなかった。叱責のことばをぶちまけることによって心の重荷を軽くしてから、イエスは気の毒なてんかんの子を連れてくるように命じ、その子をいやされた。)

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